御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第三回 「土蔵相模と問答河岸」

御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第三回 「土蔵相模と問答河岸」

みなさんは「無理問答」(むりもんどう)というのをご存知ですか? 無理問答とは、よく「笑点」(テレビ番組)の「大喜利」などで行われている言葉遊びで、「○○なのに××とはこれいかに?」というお題を出して、「△△なのに□□というが如し」といった具合に返答するお遊びです。 今回は、この無理問答に関係する歴史スポットをご紹介します。 で、その前に、私からの出題です! 「山があっても山梨(山無し)県とはこれいかに?」

すべてはそこから始まった!「土蔵相模跡」

今回、最初にご紹介する歴史スポットは、旧東海道品川宿(現在、北品川本通り商店街)の中にある 「土蔵相模跡」 (どぞうさがみあと)という史跡です。現在、街道筋に「土蔵相模跡」を示す立て札と石碑が建てられています。

筆者撮影

土蔵相模とは、幕末、明治にかけて存在した、相模屋 という 妓楼(ぎろう) のことです。妓楼とは、いわゆる 遊郭 のことです。
本来の名称は単に 「相模屋」 なのですが、土蔵造りの建物であったため、通称 「土蔵相模」 と言われていました。

さて、この妓楼の何が歴史的なのかというと、実は幕末期、この土蔵相模が、長州藩(山口県)の志士たちの集まりの場 だったのです。
長州藩といえば、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、井上聞多(もんた、ぶんた:のちの井上馨) などの志士が有名ですが、彼らが幕末、江戸の街で、攘夷、討幕に向けた活動を行っていた拠点こそが、まさにこの 土蔵相模 だったのです。

長州藩の志士たちが起こした有名な事件に 「英国公使館焼き討ち事件」 があります。
幕府が建設していた英国公使館を、長州藩の志士が焼き討ちした事件です。
目的は、攘夷 (外国人を日本から追い出すこと)にあったとされています。(所説あり)
事件の首謀者であった 高杉晋作 は、上海への留学経験があり、大国の清(中国)が、西洋列強に蹂躙されている様子をみて、日本もまた同じように侵略されるのではないかという危機感をもちました。
おそらく焼き討ちは、西洋列強に対する彼らなりの示威行動だったのでしょう。

焼き討ちには、高杉、久坂、伊藤、井上などが参加したとされています。
文久2年12月12日(グレゴリオ暦1863年1月31日)の夜、彼らは、土蔵相模に集結し、ここから焼き討ちに出立しました。
建設途中の建物でもあり、しかも深夜だったため、焼き討ちには成功したものの、幸い、死傷者は出なかったようです。
ちなみに、同じ年の8月には「生麦事件」 が起きています。

さて、この焼き討ちされてしまった 英国公使館 、どこにあったと思いますか?
実は、弊社トレーニングセンターがある、御殿山 (ごてんやま)にあったのです!
なので、この事件は 「品川御殿山英国公使館焼き討ち事件」 とも呼ばれています。

といっても、トレーニングセンターのある御殿山トラストシティにではなく、もう少し南、「品川神社」と「品川女子学院」の間 にあったようです。
品川区のHPで、この事件を説明する資料を見ることができます。(PDFファイル)。
下の図は、その資料の中にある、当時の御殿山周辺 を描いた地図です。

また、下の地図は、現在の地図に英国公使館の位置を照らし合わせたものです。(筆者推定)

さらにその下の写真(2枚)は、トレーニングセンターから推定地の方角・南東を撮影したものです。
2枚目の写真で、「品川女子学院」とその南(奥)の「品川神社」(緑の小山)との間が、英国公使館の推定地 です。

さらにその下の画像は、Google Earth の画像です。左が北、右が南となります。
黄色い網掛けの部分が英国公使館の推定地です。(東西:約300m、南北:約190m)

(上)地図:MapFanより (中)2つの写真:トレーニングセンターから南東の方角を筆者撮影 (下)画像:Google Earth より(左が北、右が南)

Google Earth の画像には、濃い網掛けと薄い網掛けの部分があります。
この違いは、土地の高低差です。濃い部分が高く、薄い部分が低い土地になっています。
その差は、2m から、高いところでは 8m 、平均すると 4m ~ 6m あります。
筆者は、この高い部分(濃い部分)に英国公使館の邸があり、低い部分(薄い部分)に空堀 があったと推定しています。
というのも、前出の資料の中で示されている英国公使館の構造(お邸と空堀の位置関係)と、土地の高低がほぼ一致しているからです。
またこの推定地の面積を測定すると、おおよそ 12,000 坪となりました。これは、前出の資料に記載されていた 11,857坪 に一致します。

焼き討ちの後、この地に再び英国公使館が建設されることはありませんでしたが、明治になって、日比谷平左衛門 (ひびや へいざえもん) (弘化5年(1848年)~大正10年(1921年))の別邸が建てられました。
日比谷平左衛門は、富士瓦斯紡績を皮切りに、日清紡績、鐘淵紡績(後のカネボウ)の設立にかかわった、明治期の紡績実業家です。
日比谷邸がいつ頃建てられたのか、詳細は不明ですが、少なくとも明治40年代の地図でそれを確認するこができます。
なお現在、この土地には日本郵政の宿舎、マンション、一般家屋が立ち並んでいます。
おそらく昭和33年頃に、日比谷邸はなくなったと筆者は推定しています。

下の地図は、昭和16年(1941年)のものです。点線で高低差が描かれています。

この英国公使館跡地(日比谷邸跡地)は、トレーニングセンターから徒歩で5分程の距離になります。

左:日比谷平左衛門 Wikipediaより 右:昭和16年(1941年)の地図

話を土蔵相模に戻します。

実は土蔵相模は、長州藩だけではなく、水戸藩の志士の集まりの場 でもありました。
英国公使館焼き討ち事件からさかのぼること3年。安政7年3月3日(1860年)、現在の警視庁庁舎前、江戸城桜田門の前で 「桜田門外の変」 (大老井伊直弼の暗殺事件)が起こりました。事件の首謀者は歴史上、水戸藩浪士 とされています。

「安政五戌午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」(Wikipediaより)

そしてこの水戸藩浪士もまた、事件の前日に 土蔵相模に集結 し、最後の酒宴を開いた後、桜田門に出立したとされています。
品川宿から桜田門の距離は8km 程あります。
ご存じのように事件の直前は、大雪だったとされています。しかも事件は早朝に起きていますので、暗くて、寒い中、さぞや大変な移動だったことでしょう。

冒頭の写真のとおり、現在、土蔵相模の面影はまったくありません。
しながわ観光協会のHPによると、建物自体は、昭和初期まで残っていましたが、その後建て替えられて 「さがみホテル」として再建されたようです。
あるサイトによると、さがみホテルは昭和52年まで営業していたそうです。(昭和57年としているサイトもあります)

現在この場所は、1Fにファミリーマートがテナントとして入っているマンションとなっています。
下の写真は、昭和初期の土蔵相模を写したものです。(右の写真は、昭和4年(1929年)撮影)
白い格子の壁になっていますが、このような壁を「なまこ壁」と言います。

しながわ観光協会より

 

  • 昭和30年代、40年代の「さがみホテル」(土蔵相模)の写真(しながわWEB写真館)
  1. 土蔵相模の遺跡
  2. 土蔵相模跡
  3. 旧東海道 土蔵相模跡
  4. 旧東海道 相模ホテル

また、幕末の土蔵相模を舞台にした映画 「幕末太陽傳」(ばくまつたいようでん)(監督:川島雄三、出演:フランキー堺、南田洋子、左幸子、山岡久乃、小林旭、菅井きん、他)が昭和32年に封切られています(配給元:日活)。
高杉晋作役は 石原裕次郎 です。
この映画は、名作として今でも語り継がれています。
2015年は、日活の創立100周年記念にあたるため、「幕末太陽傳」デジタル復刻版プレミアム・エディションBlu-rayがリリースされています。

 頭の体操!「問答河岸」

次にご紹介する歴史スポットは、「土蔵相模跡」から歩いて数十歩のところにある 「問答河岸」(もんどうかし)という史跡です。現在、街道筋に 「問答河岸の碑」(石碑) が建てられています。

筆者撮影 右は旧東海道(北品川本通り商店街)から東の方向を撮影

この史跡は、品川宿にある大寺 「萬松山 東海寺」 (まんしょうざん とうかいじ:現存しています)の 沢庵(たくあん)和尚 が、将軍徳川家光をお見送りした際、両者の間で 「無理問答」 が行われたことに由来する史跡です。無理問答とは、このコラムの冒頭でご紹介した 言葉遊び のことです。

上:嘉永3年(1850年)頃の北品川御殿山周辺(国立国会図書館デジタルコレクションより) 下:MapFanより

両者の間に、どんな無理問答が行われたのか。
まずは家光の方から仕掛けてきました。

家光 曰く「海近くして 東海寺(遠海寺:海から遠い寺) とはこれ如何に?」
すかさず 沢庵和尚 が返します「大軍を率いても 将軍(小軍) と言うが如し」

みなさんは、この勝負どう思いますか?
もちろん、沢庵和尚の勝ち ですよね。

問答「河岸」というくらいですから、上の江戸時代(嘉永3年(1850年)頃)の地図でもわかる通り、当時はこの史跡の近くまで海(あるいは目黒川)が迫っていました。当時、ここに 船着場(波止場) があり、沢庵和尚は、東海寺から江戸城に帰る家光を、この船着場でお見送りしたのだと思います。

この逸話の出典は、品川区のHPによると「徳川実紀」とされています。筆者としてはぜひとも原文を確認してみたいところですが、いまだに出来ていません。
また、品川区のHPの中では、沢庵和尚が家光を「お出迎え」した際の出来事として説明されていますが、後述する石碑の横に立っている由緒書(由来記)には、「お見送り」した際の出来事として説明されています。なお、「江戸名所図会」では、「お見送り」した際の出来事として記されています。

【2016.5.27追記】—————————————————————-

徳川実紀の該当箇所をついに見つけました。
出典は、徳川実紀の中の「大猷院殿御実紀 附録巻六」のようです。大猷院殿は、家光のことですね。
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます。
P1128の終りの部分からP1129の冒頭の部分に記載されています。
コラムの末尾に出典の画像をつけておきました。
実紀には、「東海寺へならせられしとき」と記載されています。
これを単純に読めば、将軍が「東海寺に行ったとき」となり、よって、沢庵和尚が将軍を「お出迎えしたとき」と解釈できますが、「ならせられしとき」を「訪問した際」と解釈すれば、「お見送りのとき」とも解せますね。

【追記 終】—————————————————————-
なお、「問答河岸の碑」は、品川区や東京都が建てた公的な碑ではありません。
数年前までこの碑の隣に「菊ずし」というお寿司屋さんがあったのですが、その店主が私的に建てたものです。
また、石碑の横には碑の由緒(由来)が書かれた由緒書(由来記)が立っています。
この由緒書は、衆議院議員の故・宇都宮徳馬氏の筆によるもので、日付は昭和43年(1968年)となっています。
由緒書の文面は、Monumento というサイトで確認することができます。

さらに言うと、江戸時代の実際の問答河岸(船着場)があった場所は、実は、この碑が立っているこの場所ではありません。
碑から南に 200m ほど行ったところにある 品川リハビリテーション病院(北品川病院)の東南角。八ツ山通り沿いの セブンイレブン と 品川志匠会病院 の間の横丁が、八ツ山通りとぶつかる辺りが、実際に問答河岸(船着場)があった場所です。
八ツ山通りは、江戸時代、目黒川でした。
(詳細は下の Google Earth の画像をご参照ください。)

なお、トレーニングセンターからこの実際の問答河岸に行く順路は、御殿山トラストシティの南にある御殿山通り ⇒ 第一京浜を横断 ⇒ 大横丁 ⇒ 旧東海道(北品川本通り商店街)を横断 ⇒ ほぼ正面の横丁 ⇒ 八ツ山通りにぶつかる辺り、となります。

Google Earth より (左:南 右:北)

ちなみに、八ツ山通り沿いのセブンイレブンの隣には、 「居酒屋 なかよし」 というお店があります。
「居酒屋 なかよし」の方が、セブンイレブンよりも、ほんの数メートル分だけ、実際の問答河岸の位置に近くなります。
居酒屋ですが、ランチもやっています。
生姜焼き定食、から揚げ定食、お刺身定食…etc、がっつりとおなかいっぱい食べたいときには、お勧めのお店です。
地下に続く階段を下りていくとお店の入り口があります。最初はちょっと入りずらいかもしれませんが、思い切って、階段を下りてみてください。

トレーニングセンターからは、徒歩で10分程度で行くことができます。

さて話を 沢庵和尚 に戻します。

沢庵和尚(沢庵宗彭(たくあんそうほう):1573年~1646年)は、前述のように、品川宿の大寺「萬松山 東海寺」の住職(臨済宗)です。
織田信長による比叡山焼き討ちの翌年、羽柴秀吉が長浜領主となったその年に生まれ、三代将軍家光の時代に没した、戦国時代後期から江戸時代初期に生きた人物です。同じ誕生年の武将としては、宇喜多秀家がいます。
その沢庵和尚の知名度を上げたのは、なんといっても 作家 吉川英治の作品「宮本武蔵」です。
作品の中で、沢庵和尚は、武蔵に道を説く人物 としてたびたび登場します。
しかし、武蔵と沢庵和尚が実際に接触していたという歴史的事実は存在しません。全てフィクション です。そこのことは、吉川英治自身も記しています。

ちなみに、吉川英治 は、一時期、御殿山に住んでいたことがあります(昭和28年~32年)。
なのでもしかしたら、吉川英治は、近所の東海寺の歴史を紐解く中で沢庵和尚の存在を知り、沢庵和尚と武蔵を結びつけるアイデアを思いついたのでは!と推測してみました。
ですが、調べてみると、小説「宮本武蔵」が上梓されたのは昭和10年ごろ。つまり、吉川英治が御殿山に住んでいた時期と全く重なりませんし、また、御殿山から引っ越した後でもありません。よって、筆者の推測は残念ながら不正解でした。

また沢庵和尚といえば、「たくあん漬け」 の創始者ともいわれてもいます。話の出どころは、江戸時代の中期から後期にかけて書かれた「耳袋」という随筆のようです。それによると、東海寺に遊びに来た家光に、沢庵和尚が「貯え漬け(たくわえづけ)」を出したところ、家光がたいそう気に入り、以来上意によって「貯え漬け」ならぬ「沢庵漬け」として世に広まった、というようなことが書かれています。ですが、歴史的に確証のある話かどうかは微妙なようです。

ただ、いろいろ調べてみると、沢庵和尚は、当意即妙な会話に長けた人物だったようです。また権力にも媚びるところがなく、江戸幕府に対して 抗弁書 を提出し、そのために流罪になった経験を持っています。(「紫衣事件」(しえじけん))

そんな沢庵和尚だからこそ、言葉遊びとはいえ、大権力者の将軍家光に対して、「小軍」などと、臆することなく返答をすることができたのでしょう。
ちなみに筆者が抱いている沢庵和尚のイメージは、「矍鑠(かくしゃく)とした、ちょっとおっかないおじいさん」といった感じです。

沢庵:堺観光ガイドHPより、吉川英治:吉川英治記念館HPより、徳川家光と宮本武蔵:Wikipediaより

ところで、無理問答 といえば、私がコラムの冒頭でお出ししたお題
「山があっても山梨(山無し)県とはこれいかに?」 への返答を、みなさん思いつきましたか?

私が考えた返答は・・・・

「きれいなのに、阿寒(あかん!)湖というが如し」
「つまらないのに、御徒(おかちぃ=おかしい)町というが如し」

お粗末様でした。

【2016.5.27 追記】—————————————————————-

下の図は、「徳川実紀 大猷院殿御実紀 附録巻六」です。(国立国会図書館デジタルコレクションより)
赤線部分及び赤枠部分が、問答河岸のくだりです。
ちょうどページの境目になっていますが、ちょっと加工して見やすくしてみました。

【追記 終了】—————————————————————-

徳川実紀 大猷院殿御実紀 附録巻六(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

そうだ!御殿山のトレーニングセンターに行ってみよう!

今回も、最後にご紹介するのは、弊社の トレーニングセンター品川会場 です。
トレーニングセンターは、御殿山トラストタワー14Fになります。14Fフロア全体がトレーニングセンターとなっており、とても広々とした空間になっています。もちろん、受講される方1人につき1台ずつPCが用意されております。また、講師が操作するPCの画面が、受講される方の目の前にあるモニタに映るようにもなっております。

JR品川駅からは、無料シャトルバスが出ておりますので、アクセスも大変便利です。
ぜひ、トレーニングのご用命は、弊社JTPにお任せください!

会場へのアクセスは下記をご確認ください。
http://edu.jtp.co.jp/about_jtp_it/venue/index.html

最後に

今回は、土蔵相模跡と問答河岸の歴史をご紹介しました。まだまだ、品川、御殿山近辺には、たくさんの歴史が潜んでいます。
次回も引き続き、周辺の歴史をご紹介いたします。

バックナンバー

記事は、予告なく変更または削除される場合があります。
記載された情報は、執筆・公開された時点のものであり、予告なく変更されている場合があります。
また、社名、製品名、サービス名などは、各社の商標または登録商標の場合があります。