御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第五回「原美術館と原邸」(2)

御殿山から始まる歴史散策 ~ 御殿山今昔物語 ~ 第五回「原美術館と原邸」(2)

筆者撮影:御殿山庭園内に佇む原六郎像

トレーニングセンターに隣接する「御殿山庭園」には、ガラスケースに覆われた白亜の大理石像が立っています。新緑の季節になると、その純白が若々しい緑にとても映え、なおいっそう存在感を増します。この特異な像の正体は、明治・大正期の大実業家・原六郎、その人です。今回は、前回に引き続き、「レ」の字型の建物・原美術館と、原邸の歴史をご紹介します。

前回コラムのおさらい

前回のコラム では、

  1. トレーニングセンターの南に隣接する「レ」の字型の建物 は、昭和54年(1979年)に開館した、現代美術を専門 とする「原美術館」 であること。
  2. 「レ」の字型の建物(原美術館)は、昭和13年(1938年) に建設され、建築物として80年近くの歴史を持っていること。
  3. その設計は、銀座和光本館(旧服部時計店)、上野の東京国立博物館 、日比谷の第一生命館 などを掛けた建築家・渡辺仁(わたなべじん)によってなされたこと。
  4. 「レ」の字型の建物 はもともと、原美術館・館長の原俊夫氏の祖父・原邦造の邸宅 であったこと。
  5. 原美術館 を含めた、御殿山トラストシティ一帯の広大な敷地 は、原邦造の父・原六郎 が、明治25年(1892年)に西郷隆盛の弟・西郷従道(じゅうどう)から譲り受けた ことなどをご紹介しました。

今回は、その続きとなります。

「レ」の字型の建物・原美術館 上:筆者撮影 左下:Yahoo地図 右下:MapFan

日本財界の5人男・原六郎

まずは、御殿山トラストシティ一帯の土地を所有した初代原家当主・原六郎 の略歴を紹介します。

原六郎(はらろくろう)の略歴

幕末の志士、軍人。明治、大正期の銀行家、実業家。

天保13年(1842年)、但馬国佐中村(現:兵庫県朝来(あさご)市)の大地主・進藤家(※1)の六男 として生まれる。21歳までの名前は進藤俊三郎(しゅんざぶろう)。名乗 は、長政。

幕末、攘夷運動に加担し、1863年の「生野の変」(兵庫県朝来市生野)に参加するも失敗し逃走。鳥取藩(池田家)の庇護を受けながら京都、江戸に潜伏。この時期、原六郎と改名(※2) し、江戸では坂本龍馬 とも交流。

その後、長州(山口県)に入り、大村益次郎から洋式陸軍の手ほどきを受ける。さらに、高杉晋作とともに討幕運動 に参加。戊辰戦争では官軍の隊長として、関東、東北を歴戦。最後は、榎本武揚、土方歳三 を相手とした「五稜郭の戦い」 に官軍として従軍。

明治2年(1869年)、鳥取藩士に就任。明治4年(1871年)、官費留学生として渡米、イェール大学 に留学。さらに、明治6年(1873年)、私費で キングスカレッジ (英国)に留学。両大学で、経済学、金融学、銀行学、社会学などを修め、明治10年(1877年)に帰国。

銀行家、実業家としての原六郎

その後は、明治11年(1878年)、旧鳥取藩主・池田家とともに 第百国立銀行 を設立し、頭取に就任。さらに明治13年(1879年)、東京貯蔵銀行、明治16年(1883年)、横浜正金銀行の頭取に就任。特に、傾きかけた横浜正金銀行の経営を再建させた手腕によって、経済界に頭角を現す。

その後は、日本興業銀行、台湾銀行、勧業銀行などの 銀行、東武鉄道、総武鉄道、九州鉄道、北海道鉄道などの 鉄道事業、その他、東洋汽船、東京電燈(後に東京電力へ)、帝国ホテル、猪苗代水力発電などなど、あらゆる事業に貢献 し、日本経済黎明期 の発展 をけん引。

渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎、古河市兵衛 とともに「日本財界の5人男」 と称される。

大正9年(1920年)、東武鉄道の取締役退任を機に、養子の邦造に後を託して引退。晩年、妻・富子とともに、キリスト教の洗礼を受ける。
昭和8年(1933年)没。享年92。多磨霊園に眠る。

※1:進藤家は、12世紀前半から現在まで27代続く豪農 です。室町時代に建てられたとされる六郎の生家 は、現在、「佐中の千年家」と呼ばれ、地元の観光地となっています。なお、六郎の父親について、「進藤丈右衛門(長廣)」と記しているサイトと「進藤六右衛門の六男で先代・丈右衛門の養子」と記しているサイトがあります。
ただし、東京大学資料編纂所のHPで読むことができる「原六郎談話」で、六郎本人は、父親が丈右衛門であると語っています。ただ、当時、進藤家の家督を継いでいた六郎の兄の名は「丈右衛門」となっています。

※2:「原六郎」 という名を選んだのは、鳥取藩士の松田正人だとされています。しかし何故に「原六郎」としたのか、その辺りの事情について筆者は調べ上げることができませんでした。「六郎」は、進藤家の六男だから、というようなことは、上記「原六郎談話」の中に記されています。ただし「原」については不明です。「原丈右衛門の養子」と記しているサイトもあります。

なお、原六郎 は、数々の銀行頭取、社長、取締役等を歴任しましたが、いわゆる 財閥のようなものは作っていない ようです。

原六郎と妻・富子

また、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる、明治38年(1905年)刊行の書物 「家庭の模範:名流百家」 には、六郎の妻・富子のインタビュー記事が紹介されています。その中で富子は、六郎の性格を以下のように語っています。

「出張先からは毎日のように電報や手紙で信(たよ)りを致し」
「私が参ってから(富子が嫁いでから)一度も他へ泊ったことは御座いませず」
「出先で不意に人様と会食する都合の時は必ず電話で宅へ其由を申し越す」

六郎の、愛妻家(恐妻家?)ぶりを伺うことができます。

ただ、下掲の富子の写真(同志社女子大学HPより)を見ていただければわかりますが、富子はかなりの美人 です。さらに、六郎より2回り以上も年下ですので、六郎が愛妻家になるのも頷けます。

なお、富子 は、「吉野の森林王」と称された 奈良の林業家・土倉(どくら)庄三郎の長女 です。明治21年(1888年)、20歳のときに、45歳(46歳)の六郎と結婚しました。六郎にとっては後妻になるようです。結婚式は京都祇園の中村楼で行われ、司式者(ということはキリスト教式か?)は、同志社大学 の創始者 ・新島襄(にいじまじょう) でした。
ちなみに、新島襄は平成25年(2013年)のNHK大河ドラマ 「八重の桜」 で、オダギリジョーが演じた、八重(綾瀬はるか)の2番目の夫です。

また、富子の父・土倉庄三郎 は、女子教育に熱心で、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」(平成27年後期放送)で一躍有名となった 広岡浅子 と 日本女子大学の創始者・成瀬仁蔵(なるせじんぞう) を引き合わせた人物とされています。

筆者作成

①国立国会図書館デジタルコレクション ②国立国会図書館HP ③同志社女子大学HP ④同志社大学HP ⑤日本女子大学HP ⑥Wikipedia

御殿山庭園

冒頭にもご紹介しましたが、御殿山トラストシティの 「御殿山庭園」 には、原六郎 の大理石像 が立っています。像の周囲数メートルは立ち入り禁止となっているため、遠目に見ることしかできないのですが、六郎の丹精な面持ちを確認することはできます。

御殿山庭園 は、約 2,000 坪 もある、緑豊かな美しい日本庭園です。トレーニングの合間の気分転換に、散歩してみてはいかがでしょうか。

goo地図

続きは次回へ

さて、「レ」の字型の建物 ですが、六郎が財界を引退した大正9年(1920年)、あるいは、人生に幕を下ろした昭和8年(1933年)の時点では、まだ建設されていませんでした。
つまり、この建物は、六郎ではなく、その養子・邦造の代になって建てられたものです。

よってここからは、原邦造のお話をしたいところなのですが、少々話が長くなってしまいまいたので、続きは次回となります。

次回以降のコラムでは、「原邦造」 と 「原美術館・開館前の歴史」、そして、「御殿山庭園と幕末の歴史的大事件とのかかわり」 についてご紹介します。ご期待ください。

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