御殿山今昔物語 第八回 「森村市左衛門」(前編)

御殿山今昔物語 第八回 「森村市左衛門」(前編)

2017.05.15

日本サード・パーティの本社が位置する御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。これから数回にわたり、「御殿山の主たち」と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。1回目となる今回は、日本陶器界の父・森村市左衛門です。
なお、今回から、IT教育サイトからの移行リニューアルに合わせて、記事の題名を「御殿山今昔物語」とします。

御殿山の主たち

これは、大正6年(1917年)出版の御殿山周辺の地図です。

今では考えられませんが、大きな敷地のお邸には、持ち主の名前が記載されています。たとえば、現在、弊社が入っている御殿山トラストシティには原邸があります。その北には岩崎邸。さらにその北には森村邸。原邸の東には伊達邸。伊達邸の南には日比谷邸。日比谷邸の西には益田邸。益田邸の北には西村邸などなど、です。

この記事では今後数回にわたって、これら「御殿山の主」ともいうべき偉人達の歴史をご紹介していきます。初回の今回は、開東閣で有名な岩崎邸の北に位置する「森村邸」のご紹介です。

森村邸の主は、日本陶器界の父・森村市左衛門(もりむらいちざえもん)です。

左:MapFan 右:大正6年(1917年)出版

日本陶器界の父・森村市左衛門

左:市左衛門(Wikipedia) 左:豊(左)と市左衛門(右)(日本特殊陶業HP)

森村市左衛門(6代目)は、ノリタケ、TOTO、日本ガイシなど、名だたる陶器・セラミックメーカーの礎を築いた明治・大正期の実業家です(天保10年~大正8年(1839年~1919年)享年79歳)。

森村市左衛門は、もともとは、京橋に店と邸を構える武具商の息子として生まれました。市左衛門という名は代々当主が引き継いできた名跡で、もとの名は市太郎です。

市左衛門の人生は、決して順風満帆なものではなりませんでした。若いころ、火事で2度財産を消失していますし、また、新しい商売を始めては、成功と失敗を繰り返していました。ところが、30代半ばの明治9年(1876年)。福沢諭吉の教えに感化され、貿易業を始めることを決意し、異母弟の豊(とよ)とともに「森村組」(現・森村商事)を興します。

また、豊をニューヨークに派遣し、現地に輸入雑貨店「森村ブラザーズ」を開業します。当初は日本の骨董品や雑貨を主な輸出品として扱っていましたが、明治22年(1889年)、パリ万国博覧会で目にしたヨーロッパ製の陶磁器に魅了され、国産の陶磁器・ディナーセットの生産と卸を始めることを決意します。

そこで明治37年(1904年)、「日本陶器合名会社」を興し、現在の名古屋市西区則武(のりたけ)に陶器工場を設立します。ところが、ディナーセットの製造はなかなかうまくいきません。試行錯誤の末、10年後の大正3年(1914年)、ようやく日本初のディナーセットの製造に成功します。苦労のかいもあって、その後は順調に輸出量を増やすことができました。この「日本陶器合名会社」が、現在のノリタケ(ノリタケカンパニーリミテッド)です。

日本陶器合名会社は設立以来、たびたび各部門を分社化してゆきました。TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、INAX(現・LIXIL)など、日本を代表する陶器・セラミックの会社は、すべてこの日本陶器合名会社から生まれた会社です。

これらの会社は「森村グループ」と呼ばれ、現在に至っています(なお、INAX(LIXIL)は森村グループに含まれません)。

森村学園の創設

市左衛門は、また、人材の育成、教育活動にも熱心でした。

明治34年(1901年)、慈善団体「森村豊明会」(ほうめいかい)を設立し、黎明期の慶応大学、早稲田大学、北里研究所などを支援しました。さらには、当時、女子の高等教育の必要性を説き、日本女子大学の設立に奔走していた成瀬仁蔵(なるせじんそう)を最大限に支援しました。後に、日本女子大学付属の幼稚園、小学校が創立された際、その名が「豊明幼稚園」「豊明小学校」となったのは、「森村豊明会」に由来します。「豊明」とは、明治32年(1899年)に相次いで急逝した弟の豊(とよ)と、長男の明六(めいろく)の名にちなんだものです。

京橋の木挽町から高輪に居を移した市左衛門は、明治43年(1910年)、自邸に私立南高輪幼稚園と私立南高輪尋常小学校を設立します(※)。冒頭の大正6年出版の地図の中に「文」の記号があったのがそれです。

この学校は昭和23年(1948年)に「森村学園」と改称し、昭和55年(1980年)まで、この地に校舎を構えていました(森村邸以外に、新坂上にも敷地・校舎をもっていまいた。新坂上は、品川駅高輪口にある「柘榴坂」(ざくろざか)を登り切った正面です(Googleマップ))。昭和55年(1980年)当時、初等科と男子部(中等科・高等科)が新坂上にあり、幼稚園と女子部(中等科・高等科)が森村邸跡にありました。森村学園は現在、幼稚園から高等部までを擁する一貫校として、神奈川県のつくし野(長津田)に移転しています。

※明治時代に毎年刊行され、著名人の住所が記載さていた「日本紳士録」によると、市左衛門が京橋区木挽町(現在、銀座7丁目)からこの地に転居したのは明治43年(1910年)か、その前年であることがわかります。幼稚園と小学校の設立が同じ明治43年であることから、もしかすると、幼稚園、小学校の設立こそが転居の目的だったのかもしれません。

明治42年(1909年)の「日本紳士録」によると、転居前の住所が木挽町9丁目30となっています。この住所を大正15年出版の地図に照らし合わせてみると、現在の「新橋演舞場」の真南、通りを挟んだ真向いに位置していたことがわかりました(Googleマップ)。転居後の高輪の敷地は、木挽町の敷地にくらべて、目算でぞっと10倍くらいの広さになっています。

森村邸のその後

昭和55年(1980年)の学園移転後の森村邸跡地には「ペアシティ ルネッサンス高輪80」という高級マンションが建設され、今に至っています。弊社の14Fのトレーニングセンターからも見える、赤茶色のマンションです。実はこのマンションには、新婚当初の三浦友和・山口百恵夫妻が住んでいました。噂では、最上階に住んでいたとか。

GoogleEarth

ちなみに、平成5年(1993年)に、ナイフを持った男が夫妻の自宅に立てこもる事件が起こりましたが、この事件の舞台はこのマンションではなく、現在も暮らしている東京都国立市の自宅です。

江戸時代、明治前期

今度は逆に、江戸時代にまでさかのぼってみます。江戸時代、森村邸のあった場所は、入れ替わり立ち代わり、様々な大名の下屋敷として利用されていました。

左:安政4年(1857年)芝三田二本榎高輪辺絵図 右:明治12年(1879年)

例えば、ペリーが来航した4年後の安政4年(1857年)当時は、下野吹上藩(しもつけふきあげはん・栃木県栃木市吹上町)の有馬備後守氏郁(うじしげ)と、川越藩(埼玉県川越市)の松平大和守直侯(なおよし)が下屋敷を構えていました。有馬氏郁は、吹上藩の初代藩主です。吹上藩は、幕末の天保13年(1842年)になって初めて置かれた藩で、久留米藩・有馬家の分家です。一方、川越藩・松平直侯の実父は、御三家・水戸藩の徳川斉昭(なりあき)で、「最後の将軍」こと15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、実兄にあたります。

ちなみに、「下屋敷」というのは別荘のようなもので、大名が日常的に居住する屋敷は「上屋敷」と呼ばれます。それとは別に、隠居した藩主や成人した世継ぎが居住するための「中屋敷」が存在することもあります。江戸時代の地図や絵図では、表門の位置に●(黒丸)や■(黒四角)などの記号が記載されているのですが、●(黒丸)が下屋敷、■(黒四角)が中屋敷を表し、上屋敷には●(黒丸)■(黒四角)の代わりに家紋が描かれます。また、「松平大和守」などの名前は、表門の向きにそろえて記載されます。

なお、安政4年の地図をよく見ると松平大和守の下屋敷の正門前に、海に突き出ている「御用地」というものが描かれています。これはおそらく、「新編武蔵風土記稿」に「八ツ山下海岸にあり、長十間、幅二間、常に船を繋ぎ置き・・・」と記載れている船着場だと思われます。

品川駅と森村邸

明治維新を迎えると、森村邸の地は、しばらくの間、陸軍の軍用地(明治12年地図参照)として使用されます。筆者の記事 第一回「品川駅と御殿山」の中で、品川駅開業前夜、軍が鉄道の建設に協力的でなかったため、結局、海に突き出る形で品川駅舎が建設され、線路が海上を走ることになった、ということをご紹介しましたが、まさにこの軍用地こそがその原因だったのかもしれません。

明治5年(1872年)の開業当時の品川駅は、現在の品川駅よりも南に位置し、森村邸(軍用地)の真ん前、八ツ山橋のたもとにありました。ちなみに、八ツ山橋は、明治5年(1872年)、新橋・横浜(品川・横浜)間の鉄道の敷設とともに架橋された橋で、日本最古の跨線橋(こせんきょう)として有名です。昭和29年(1954年)映画「ゴジラ」にて、ゴジラが壊した最初の人工建造物としても知られています。

また、明治12年の地図で、南の方(鉄道の東。東海寺の北)にも「海軍用地」と記載されている部分があります。これは、現在、権現山(ごんげんやま)公園がある辺りです(Googleマップ)。権現山からは、江戸の頃から水が湧き出ていたいようで、海軍が真水の確保のためにこの地を抑えていました。詳しくは、近い将来、別の記事でご紹介したいと思います。

今回はここまで

以上、ここまで、『御殿山今昔物語 第八回 「森村市左衛門」(前編)』として、森村市左衛門の生涯と、森村学園、また、その森村邸の歩んだ歴史をご紹介してまいりました。

後編では、森村邸と幻の路線・京急青山線とのかかわりについてご紹介します。

参考サイト

「御殿山今昔物語」バックナンバー

記事は、予告なく変更または削除される場合があります。
記載された情報は、執筆・公開された時点のものであり、予告なく変更されている場合があります。
また、社名、製品名、サービス名などは、各社の商標または登録商標の場合があります。