御殿山今昔物語 第九回 「森村市左衛門」(後編)

御殿山今昔物語 第九回 「森村市左衛門」(後編)

2017.06.14

日本サード・パーティの本社が位置する御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多く、お邸を構えてきました。

これから数回にわたり、「御殿山の主たち」と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。
今回は、陶器の父・森村市左衛門の後編です。

幻の路線・京急青山線と千駄ヶ谷線

(1)京急・北品川駅 (2)市電・北品川停留場 (3)京急・高輪駅 (4)市電・品川駅前停留場 (5)森村邸 (6)原邸(現・JTP本社(御殿山トラストタワー))

この地図は、大正15年(1926年)に出版されたものです。森村邸の北、現在のJR品川駅のあたりを見てみると、平成の現在には存在していない駅が2つ記載されています。

1つは、(4)東京市電の「品川駅前停留場」、そしてもう1つは、(3)京急(当時は京浜電気鉄道)の「高輪駅」です。この高輪駅が当時の京急の終着駅でした。

高輪駅は、大正14年(1925年)に開業したのですが、実は当初の計画では森村邸の敷地に建設する予定でした。

高輪駅の開業まで

時間を少し遡ります。

高輪駅の開業以前、京急の終着駅は、八ツ山橋の南のたもとにあった「品川駅」(八ツ山駅)でした。この駅が、京急にとっての初代・品川駅です。

初代・品川駅は、明治37年(1904年)に開業します。その場所は、下の大正6年(1917年)出版の地図で確認することができます。(Googleマップ

左:MapFan  右:大正6年(1917年)出版

初代・品川駅が開業されて以降(明治37年以降)、京急は、東京市内への乗入れを切望します。

そのため、明治41年ころから、初代・品川駅を起点として、青山(※1)まで伸びる「青山線」と、さらに、大正元年からは、青山から千駄ヶ谷(※2)まで伸びる「千駄ヶ谷線」の敷設を計画します。

※1:青山駅の建設予定地は青山南7丁目2番地(当時)です。現在の青山学院大学の西隣に相当します(Googleマップ)。下は、大正12年(1923年)出版の地図です。水色の部分が建設予定地周辺です。青山学院大学は当時から現在と同じ場所にありました。

※2:千駄ヶ谷駅建設予定地は北脇339(当時)です。現在の東京体育館の辺り。国立競技場の西隣に相当します(Googleマップ)。下は大正6年(1917年)出版の地図です。水色の部分が建設予定地周辺です。

この計画、政府からの特許も下りていたのでが、度々内容が変更された挙句、結局、大正15年(1926年)に千駄ヶ谷線の特許が失効し、また昭和3年(1928年)には青山線の特許も失効してしまいます。つまり、両路線は、幻の路線となってしまったのです。

ただ、この青山線(千駄ヶ谷線)の構想のなかで、計画の片鱗を伺わせる建物が1つだけ後世に残ることになりました。それが高輪駅です。

京急は、大正7年(1918年)以降の計画で、この高輪駅を起点にて青山までの延線を企図していたのです。

高輪駅 (宮田憲誠著「京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線」(JTBパブリッシング))

森村邸と高輪駅

ただこの高輪駅、大正7年(1918年)以前の計画では、森村邸の敷地内に建設することになっていました。下の図は、その森村邸における駅の設計図です。

設計図 (宮田憲誠著「京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線」(JTBパブリッシング))

設計図によると、幼稚園の真ん前に乗車場が配置され、線路はそのまま森村邸から西の方角に伸びるように計画されています。また、森村邸を出た線路は、その後、島津邸(現・清泉女子大学)の手前までトンネルで西進したのち、北上して青山を目指すというものでした。

しかし、京急は、森村邸とその南にある岩崎邸の土地買収に失敗します。

そのため、明治44年(1911年)時の計画以降、ずっと維持されていた森村邸に高輪駅を建設するという計画は、大正7年(1918年)になって、森村邸の北、現在のJR品川駅の向い側に建設するという計画に変更されたのです。(変更後、実際に建設された場所は、冒頭の大正15年出版の地図をご参照ください)

青山線、千駄ヶ谷線のルート

ちなみに、大正3年(1914年)時点の計画における青山線のルートは、初代・品川駅→高輪駅(森村邸)→トンネル→一本木(島津邸手前)→白金猿町→白金今里町→白金台2丁目→白金三光町→下渋谷伊達前→豊沢→町田→青山南町でした。

これを、現在に当てはめると、おおよそ、北品川駅→ペアシティルネッサンス高輪80→トンネル→清泉女子学院の東→浅草線高輪台駅周辺→三田線白金台駅周辺→東京都庭園美術館の東→恵比寿ガーデンプレイスの東→国学院大学周辺→青山学院大学というルートになるでしょうか。

下の画像は、想像も交えて作成した青山線、千駄ヶ谷線の路線図です。大正3年(1914年)時点の計画を基にしています。

Googleマップ

高輪駅のその後

高輪駅が存在したのは大正14年(1925年)から昭和8年(1933年)までのわずか8年間です。昭和8年、現在も使用されている京急・品川駅(三代目)が建設されたため、高輪駅は駅としての役目を終えることになります。ですが、この駅舎はその後、昭和55年(1980年)まで、京急の本社ビルとして使用されます。現在その跡地には「ウィング高輪WEST」が立っています。(Googleマップ/ストリートビュー

なお、京急・品川駅の変遷を整理すると以下のようになります。

年月日出来事備考
明治37年5月8日初代・品川駅誕生現存せず
大正13年3月29日初代・品川駅廃止(物理的に消滅)
二代目・品川駅誕生現・北品川駅
大正14年3月11日高輪駅誕生現存せず
二代目・品川駅が北品川駅に改名
昭和8年4月1日高輪駅廃止
三代目・品川駅誕生現・品川駅

※昭和8年の三代目・品川駅の誕生とともに、品川駅前停留場から北品川駅停留場の間の市電は廃止されました。なお、市電・品川線そのものが廃止されたのは、昭和42年(1967年)です。

高輪にトンネル!?

ところで、ご紹介した青山線のルートの中にトンネルが含まれているのを見て不思議に思いませんでしたか。なぜ、品川(高輪)の街中にトンネルを掘る必要があるのか、と。

赤線は大正3年(1914年)時点の青山線の計画(筆者推定含)。黄の部分はトンネル。右下の星印は初代・品川駅。この画像はGoogle Earthからのものですが、同じような景観は、御殿山トラストタワー14Fにある弊社トレーニングセンターからご覧いただけます。

実は、森村邸一帯の街区は、八ツ山という山(台地)の中にあって、なぜかそこだけ窪地になっています。窪地の落差は、国土地理院のサイトで計測すると、おおよそ10m。ビルの3階ほどの高さになります。

赤線は青山線 黄線はトンネル部分 (1)初代・京急品川駅 (2)森村邸 (3)一本木(現・東五反田) (4)島津邸(現・清泉女子大学) (5)現・京急品川駅 (6)日本サード・パーティ  (上:Tokyo Terrain on the Google Earth 下:Google Earth)

そのため、森村邸(高輪駅)から西に線路を伸ばし、八ツ山の西端(一本木)まで横断しようとすると、山肌を登るか、トンネルを掘るか、ということになりますが、この窪地の淵の部分は、崖と呼んでよいほどの急斜面となっているため、山を登るのは不可能となっています。従って、トンネルを掘るという結論に達したのではないでしょうか。

ところで、森村邸周辺の窪地。なんとも人工的な感じのする直線的な四角形です(上図の中の(2)の周辺部)。この直線的な段差は、自然のいたずらによる偶然の産物だったのでしょうか(※1)。もしかすると、幕末にこの地が品川御台場の土取場であったことと関係しているのかもしれせん(※2)。

※1 「寛永江戸全図」と呼ばれる江戸時代初期・1640年代に作られた最古の江戸図にも、形は曖昧ながらも、この窪地が描かれています。

※2 御台場が建設された嘉永6年(1853年)当時、この地は、徳川家康の異父弟・松平定勝の五男・定房(さだふさ)を藩祖とする今治藩・(久松)松平家の下屋敷がありました(嘉永3年の地図)。この松平駿河守下屋敷(八ツ山)は、御殿山、泉岳寺境内と並んで、品川御台場の土取場とされた場所です。

ちなみに、ペアシティルネッサンス高輪80の近所にある 高輪南町児童遊園(公園)では、この10mの崖を間近に見ることができます。公園には、つづら折りの大きな階段が崖に架けられており、階段そのものが、圧巻の代物となっています。また、崖の上から見える品川駅方面の見晴らしも、一見の価値ありです。もしあなたが「ダンサー」(※)ならば、ここは必見のスポットです。

弊社から公園へ行くには、開東閣の西側(御殿山交番前交差点)から回ると便利です。徒歩5分程度です。(Googleマップ

※ダンサーとは「段差をこよなく愛する人」の意味です。命名は、タモリ(NHK「ブラタモリ」)です。

森村市左衛門(9代目)と日本サード・パーティ

最後の話題となりますが、実は、日本サード・パーティ株式会社は、森村家との少なからぬ縁を持っています。
というのは、6代目・市左衛門の曾孫にあたる森村衞(まもる。9代目市左衛門)氏が、弊社の設立発起人の1人として名を連ねており、また、昭和62年(1987年)の会社設立後には、相談役の任に就いていたからです。

これは、弊社初代取締役社長・森和昭(もりかずあき)が学生の頃、衞氏のお宅(泉岳寺近辺)に下宿していた縁があったためです。森は、それ以来、衞氏から経営者としての薫陶を受けていたといいます。

以上を持ちまして、前・後編の2回にわたってご紹介した森村市左衛門およびそのお邸にまつわる歴史話は終了となります。

後編は、だいぶ京急・青山線の話に偏ってしまいましたが、京急は、御殿山の歴史を語る上で欠かせない要素ですので、ここでご紹介いたしました。

次回は、伊達宗陳邸の歴史をご紹介します。ご期待ください。

参考資料およびサイト

「御殿山今昔物語」バックナンバー

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