御殿山今昔物語 第十三回「益田孝」(前編)

御殿山今昔物語 第十三回「益田孝」(前編)

2017.11.06

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介しています。

4人目は、三井物産初代社長・益田孝です。今回はその前編です。

三井物産の初代社長・益田孝

大正6年(1917年)出版の地図

これは、いまからちょうど100年前、大正6年(1917年)の地図です。前回の記事(第十二回)でご紹介した日比谷平左衛門邸の左(西)にあるお邸の主が、今回の主人公・益田孝(ますだたかし)です。

益田孝(嘉永元年(1848年)~昭和13年(1938)、享年91)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した実業家で、明治9年(1876年)に創業した三井物産の初代社長です。

なお、戦前の三井物産と戦後の三井物産には法的継続性が存在しないため、正確には、益田は旧三井物産(戦前の三井物産)の初代社長ということになります。詳しくは後述します。

大正6年(1917年)地図を拡大。

現在の地図。益田邸の跡地にはミャンマー大使館とマンションが立っています。(goo地図)

Googleアース

益田孝の経歴 江戸時代

益田は、幕府の役人の子として佐渡島の相川(Googleマップ)で生まれました。相川は、佐渡奉行所のある佐渡の中心地です。幼名は徳之進。益田家は、代々、佐渡金山にかかわる地役人でした。

幼少期、父親の転任にともない函館へわたり、函館奉行所の教育所で英語を学びます。さらに、父親の転任にともない江戸に出た後は、わずか14歳でアメリカ公使館(領事館)の通訳に任官します。当時の公使は初代駐日公使のタウンゼント・ハリスです。また、明治学院大学やフェリス女学院の前身となったヘボン塾にも入塾します。さらに、遣仏使節の随員となった父親の従者として、16歳でフランスに渡ります。17歳で帰国した後、幕府の騎兵隊に入隊。20歳のとき騎兵隊の隊長(騎兵頭並)に任命されますが、その後すぐに徳川幕府は消滅します。

左:益田孝(三井広報委員会HPより) 右:スフィンクスに立ち寄った遣仏使節一行(Wikipediaより)

益田孝の経歴 明治以降

明治5年(1872年)、27歳になった益田は、政治家・井上馨の知己を得て、大蔵省に入省し貨幣権頭となります。翌年、井上が汚職事件で下野すると、益田も大蔵省を辞し、井上とともに貿易会社『先収(せんしゅう)会社』(銀座4丁目)を興し、副社長に就任します。この会社は、井上の口利きもあって順調に業績を伸ばしていたのですが、明治8年、井上の政界復帰にあわせて閉鎖することになります。しかし、三井の大番頭・三野村利左衛門が、この会社の引き受けを申し出でます。なぜ三井なのかといえば、井上が三井財閥の最高顧問だったからです。

結局、井上、三野村、益田の話し合いによって、この会社は、益田を初代社長とする新会社として明治9年(1876年)に再スタートすることになります。この会社こそ、日本初の総合商社『三井物産』(日本橋坂本町からすぐに兜町に移転)です。社名は、益田が決めました。ただし、新会社の先行きにリスクを感じていた三井家は、この会社に一銭も出資しませんでした。当面の運営資金は、同じ年に誕生した三井銀行との間で交わされた、5万円を限度とする貸借契約で賄われました。

三井物産が誕生した当時、益田は弱冠28歳。三井物産はその後大いに発展し、明治40年代には国内貿易額の2割を占めるほどになりました。また益田は、明治21年(1888年)に三井三池炭鉱(Googleマップ)を落札します。この三井鉱山こそが、その後の三井を飛躍的に発展させる原動力になります。益田がかかわった三井物産、三井炭鉱は、三井銀行と合わせて、戦前の三井財閥を支える三本柱となって行きました。

なお、益田は、三井物産を興したのと同じ明治9年、私財を投じて『中外物価新報』なる新聞を創刊しています。この新聞は後に、日本経済新聞となります(昭和21年(1946年))。

明治25年(1892年)に、三井物産の社長を退任した後も、三井財閥の重鎮として財閥を主催していた益田ですが、大正3年(1914年)、66歳のときに三井合名会社の相談役に退き、実業界からは引退します。

左:鈍翁こと晩年の益田孝(Wikipediaより) 右:西郷隆盛から『三井の大番頭』といわれた明治の元勲・井上馨(Wikipediaより)

晩年の益田は、『鈍翁』(どんおう)という茶号を称して、茶道をたしなむ趣味人としての人生を送ります。鈍翁とは、『人間は小利口になるよりも鈍であるべきだ』との思いに由来します。御殿山の大豪邸を『碧雲(へきうん)台』と称し、また、明治39年(1906年)には、小田原の板橋に『掃雲(そううん)台』と称する大別邸を造営し、そこで数多くの茶席を立てていたといいます。

大正3年(1914年)、御殿山から掃雲台に移居し、昭和13年(1938年)、掃雲台にて永眠します。享年91でした。

小田原の別邸『掃雲(そううん)台』

小田原市の広報『広報おだわら』(2008年8~11月号)によると、掃雲台は当初『早雲台』と記したそうです。おそらく、戦国大名の北条早雲にちなんだのでしょ。ただ、神奈川新聞(2012年8月9日)の記事には、『鎌倉時代からあるという2本の老松が雲を掃(はら)うように見えたため「掃雲台」と名付けられた』と書かれています。面積は、約30,000坪。本人の住居、4つの使用人の住居、5つの蔵、9つの茶室、みかん畑、缶詰工場、毛織物工場などがあったとされています。

後年、土地は分譲されてしまい、現在、その所在地を特定することは難しいのですが、入り口跡に案内板が立っています(Googleマップ/ストリートビュー)。おそらくこの入り口から北に敷地が広がっていたのではないでしょうか。昭和4年(1929年)当時の地図をみると、入り口付近には『益田邸前』という路面電車の停車場があったことがわかります。ちなみに、益田孝の息子・信世は、戦時中、初代小田原市長を務めています(昭和16年(1941年)~19年(1944年))。

御殿山『碧雲台』

ところで、益田はいつから御殿山の地に邸を構えていたのでしょうか。ある個人の方のサイトには、益田は明治10年(1877年)に、御殿山の土地(約12,000坪)を購入したと記されていました。国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる『日本紳士録』によれば、少なくとも明治22年(1889年)には、この地を居住地としていたことがわかります。

江戸時代、この地は単なる畑だったようですが、幕末に作成された『御殿山外国公使館地図』(東京大学所蔵)によれば、フランス公使館建設予定地になっていたことがわかります。ただこの公使館建設計画は、文久2年(1863年)に起きた、高杉晋作ら長州藩士による『品川御殿山英国公使館焼き討ち事件』によって頓挫したものと思われます。詳しくは、第三回『土蔵相模と問答河岸』をご参照ください。ちなみに、Wikipediaによると、長州藩士だった井上馨は、焼き討ちの際の火付け役だったようです。

上:御殿山外国公使館地図(東京大学所蔵)を品川区が編集したもの(品川区HPより) 下:フランス公使館建設予定地を現在の地図に比定しました。(goo地図)

益田は御殿山のこの地を『碧雲(へきうん)台』と称しました。敷地内には、鹿鳴館や帝国ホテル、開東閣を手掛けたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計した洋館のほか、太郎庵、土足庵、為楽庵、禅居庵、幽月亭、といった茶室が点在しており、また、愛知県海部郡大治町にある天台宗・明眼院(Googleマップ)から移築した『応挙館』なる茶室もあったようです。応挙館はその名のとおり、円山応挙の障壁画で彩られた茶室です。応挙館は現在、東京国立博物館(台東区上野)に移築されています(昭和8年(1933年)に移築)。

なお、碧雲台の庭の様子は、国立国会図書館デジタルコレクションでみることができる『名園五十種』(明治43年刊行)で詳しく確認することができます。

左:『名園五十種』に掲載されている益田邸の庭のスケッチ  右:東京国立博物館(上野)に移築されている応挙館(東京国立博物館HPより)

ミャンマー(ビルマ)大使館

御殿山の益田邸跡には現在、ミャンマー大使館が立っています(Googleマップ)。

左:Googleマップ  右:2014年当時のミャンマー大使館の正門(Googleストリートビューより)

ミャンマー大使館がいつから益田邸跡地に存在するのか、どうして存在するのか、その詳細は不明ですが、筆者が調べた限り、どうやら昭和19年(1944年)頃にはすでに大使館が存在したようです。昭和19年当時は、ミャンマーではなく、ビルマ国でした。Wikipediaによると、ビルマ国は昭和18年(1943年)に、日本の支援を受けてイギリスの植民地支配から独立した国家です。代表はバー・モウ。いわゆる、日本の傀儡政権とされています。ただし、ビルマ国は日本の敗戦とともに消滅します。代わりに昭和23年(1948年)、ウー・ヌーを初代首相とするビルマ連邦が建国されます。

なお、昭和19年(1944年)頃にすでにビルマ大使館が存在したとする根拠は2つあります。

1つ目は、作家・三好徹氏のコラムです。氏はコラムのなかで、子供のころの記憶として、太平洋戦争が始まったころには益田邸の住居がビルマ大使館になっていた、と記しています。

2つ目は、参議院のサイトにある、平成元年の臨時国会で行われた田英夫議員に対する政府の答弁書です。この答弁書のなかに、昭和19年(1944年)と昭和37年(1962年)に、ビルマ政府がこの土地を購入したことが述べられています。

ただ、昭和33年(1958年)頃の地図には、依然として『益田邸』と記載されています。

ここからは筆者の想像ですが、益田が死去した昭和13年以降、お邸は仮住まい程度の扱いとなっており、ビルマ国が昭和19年に敷地の一部を購入して大使館を建てた。そして、昭和37年、ビルマ政府は再び残りの土地も購入するに至った。といったところではないでしょうか。

昭和33年(1958年)の地図。ただし、昭和35年(1960年)の住宅地図には『益田』の名前は記載されていません。

なお、『ビルマ建国の父』として名高いアウン・サン(アウンサンスーチーの父親)は、1941年にビルマ独立義勇軍を創設し、日本軍とともにイギリスの植民地支配と戦った英雄です。前述のビルマ国では国防相に就任しています。しかし、ビルマ国が、日本の傀儡であることを嫌った彼は、一転、日本軍に反旗を翻しまします。太平洋戦争終結後、再びイギリスの植民地に戻ってしまったビルマを、再度、独立させるべく活動をしていたさなか、1948年に暗殺されてしまいます。

左:建国の父、アウン・サン(Wikipediaより)  右:アウン・サンの娘のアウンサンスーチー(Wikipediaより)

戦後、三井物産解散と大合同

益田が起こした三井物産は、法的には、現在の三井物産との継続性を保有していません。つまり、太平洋戦争後の財閥解体を挟んで、同じ社名でありながら、別な会社という扱いになっています。

ここからは、益田孝とは直接関係ない話ではありますが、財閥解体の一環として解散させられてしまった三井物産が、いかにして再合同を果たしていったのか、そのドラマチックな経緯を ご紹介します。なお、内容は『三井広報委員会』のHPを全面的に参考にしています。

GHQによる財閥解体と三井物産の解散

左:GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー(Wikipediaより) 右:2012年当時の大手町の三井物産本社ビル(Googleストリートビューより)。執筆時点で、本社ビルは建て替え中。

GHQによる財閥解体はよく知られていますが、その内容は極めて熾烈なものでした。三井一族では、全財産が凍結され、その9割が財産税で没収されます。また資産の大部分を占めていた株式が一方的に放出され、一切の企業役員から追放されます。一族は無収入状態となり、その財産力は想像を絶するほど低下します。

また、三井財閥の最高統括機関(持株会社)だった三井本社は解散させられ、その保有株式はすべて解放されます。さらには、三井本社の直系および準直系傘下にあった企業資産も、ことごとく処分されます。そしてさらに、昭和22年(1947年)、突然に三菱商事とともに三井物産に対して解散命令が下され、三井物産は明治9年(1876年)の創業以来71年目にして、唐突にその幕を下ろすことになります。

なお、解散命令は、①部長職以上のものは2人以上1つの会社に属してはならない、②三井物産社員が100人以上集まり、会社を興してはならない、③三井物産の建物は新会社で使用してはならない、④いかなる新会社も『三井物産』の社名を冠してはならない、という大変厳しいものでした。

その結果、三井物産の社員は散り散りとなってしまい、それぞれが零細企業を設立することになります。その数は200社を越えたといわれています。

※資産処分の対象となった企業は以下のとおりです。

  • 直系10社
    三井物産、三井鉱山、三井信託、三井生命保険、三井化学、三井不動産、三井船舶、三井農林、三井造船、三井精機工業
  • 準直系12社
    日本製粉、三井倉庫、大正海上火災、東洋レーヨン、東洋綿花、三機工業、東洋高圧、三井油脂化学、三井軽金属、三井木材工業、三井木船、熱帯産業

三井物産再結成までのごたごた

サンフランシスコ講和条約が発効された昭和27年(1952年)、GHQからの解散命令は解除され、それとともに、『三井物産』の商号を使用することが可能となります。これを機に、三井系各社からは三井物産の復活、大合同を望む声が浮上します。当時、三井物産の流れをくむ会社として頭角を現していたのは、第一物産、第一通商、室町物産、日本機械貿易の4社でした。しかし、大合同はなかなか実現しません。おそらく、4社は主導権を巡ってしのぎを削り、必ずしも協力的な関係ではなかったものと思われます。ちなみに、2年後の昭和29年(1954年)には、三菱商事が合同・復活を果たしています。

まず、昭和27年(1952年)、旧三井物産系14社の社長が集まり、大合同への道筋が話し合われます。その中で、『三井物産の商号は、大合同が実現するまで(14社のうちの1つ)日東倉庫建物が預かる』ということが決定されます。おそらく、商号権(登記)を日東倉庫建物が所有する、ということだったのでしょう。

ところがその直後、日東倉庫建物は、自社の商号を『三井物産』に改称してしまいます。さらに翌年には、筆頭4社のうちの1つ室町物産と合併してしまいます。この一連の流れを仕掛けたのは、室町物産でした(以下、室町三井物産と記します)。当然、他の関係者は激怒します。

その後、三井銀行が仲介して、昭和30年(1955年)に残りの筆頭3社が、第一物産の名で合併します。このとき、第一物産の社長は、社名を『新三井物産』にすることを提案しましたが、周囲の反対にあって断念します。室町三井物産と第一物産の溝はなかなか埋まりませんでした。

そうこうしているうちに、ライバルの三菱商事は順調に業績を伸ばしていきます。三菱商事の当時の取引規模は、国内の貿易額の9%を占めるまでになっていました(業界1位)。戦前の三井物産が三菱商事の業績を大きく引き離していたことを考えると、関係者にとっては屈辱的な状況になっていたのです。三井グループ各社の首脳陣や長老は、熱心に両社の説得を重ねていきました。

そしてついに、昭和34年(1959年)、三菱商事の復活に遅れること5年にして、室町三井物産と第一物産は1対1で対等合併することになります。ここに、総合商社『三井物産』の大合同が完成したのです。

しかし、大合同に参加しなかった企業もあります。ゼネラル物産(ゼネラル石油)です。このため、大合同によって三菱商事から業績首位の座を奪還した新生・三井物産でしたが、エネルギーの主力が石炭から石油へ変化するなかで、再びその座を明け渡すことになってしまいます。

左:室町三井物産と第一物産の合併調印式。左が第一物産社長、右が室町三井物産社長(三井広報委員会HPより) 右:建て替え工事が始まる以前の大手町の三井物産本社ビル(Googleアースより)

人の三井、組織の三菱

巷間よく『人の三井、組織の三菱』(ついでに『結束の住友』)と言われます。三井の歴史を見てみると、益田孝をはじめ、時代の節目、節目で、傑出した人物が現れ、三井を大いに発展させてきたことがわかります。ただ、その反面、その人の個性に組織が翻弄される傾向が強かったのではないでしょうか。前述のとおり、戦後、ライバルの三菱商事が組織を優先し、個性を埋没させ、いち早く大合同を実現したのに対し、三井物産の大合同が遅れてしまった原因は、実はそんなところにあったのではないでしょうか。室町三井物産と第一物産との間には関係者どうしのかなりの確執があったようです。

ただしWikipediaの『三井物産』の頁には、三菱商事は商品別の解体だったために比較的再結成しやすかったのに対し、三井物産は地域別の解体だったため再結成しづらかった、といった記載がされています。

以上で、前編は終了です。次回、後編をご期待ください。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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