御殿山今昔物語 第十五回「西村勝三」(前編)

御殿山今昔物語 第十五回「西村勝三」(前編)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これから数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介していきます。
5人目は、明治の工業の父・西村勝三です。今回はその前編です。

明治の工業の父・西村勝三

大正6年(1917年)出版の地図

これは今からおよそ100年前、大正6年(1917年)の地図です。前回の記事でご紹介した益田孝(ますだたかし)の左にあるお邸の主が、今回の主人公・西村勝三です。

西村勝三は、明治時代に活躍した実業家で、後世、『明治の工業の父』と呼ばれたお人です。靴メーカーとして有名なリーガル・コーポレーションや、初代東京駅の外壁レンガを製造した品川白煉瓦製造所など、数々の事業を興した人です。

大正6年(1917年)地図を拡大。

現在の地図。実際の土地境界線は不明です。『靴の歴史散歩88』によれば、4000坪(約13200㎡)あったといわれています。比定通りとすれば、南北約120m、東西約130m。跡地は現在、住宅街となっています(地図:品川区HPより)。

上が南(大井町駅方面)、下が北(品川駅方面)(Googleアースより)

弊社トレーニングセンター14Fから望む西村邸跡

生い立ち

西村勝三は、佐倉藩(千葉県佐倉市)堀田家の藩士で、かつ、佐野藩(栃木県佐野市)の附家老だった西村平右衛門の三男として、天保7年(1836年)、江戸の佐倉藩邸で生まれます。幼名は、三平。兄は、宮中顧問官や貴族院議員を務め、道徳教育の重要性を唱えた思想家、教育家の西村茂樹です。なお、佐野藩は、佐倉藩の支藩です。

幼い頃より佐倉藩の藩校・択善堂で学び、また、松山大吾に随って西洋砲術を修め、18歳にして藩の砲術助教となります。

マピオンより

左:西村勝三(品川区公式チャンネル しながわネットTV『しながわのチ・カ・ラ ものづくり品川物語』より) 右:勝三の兄・西村茂樹(Wikipediaより)

あるとき、砲術に関連する化学知識が縁で、佐野の彦根藩領で代官を務めていた正田利右衛門と知り合います。佐野は鋳物の名産地で、正田は、鉛山を管理する豪商でした。勝三は、正田から西洋の製鉛法の伝習を依頼され、鉛を溶解するための反射炉の建設を試みます。しかし、当時はまだ耐火レンガが存在しなかったために失敗。この失敗が、後に勝三をして、品川白煉瓦製造所を興すきっかけになったと思われます。

1860年、桜田門外の変で、彦根藩主・井伊直弼が暗殺されると、佐野の彦根領では、水戸藩のさらなる襲撃に備えて、西洋銃による武装を計画します。正田は、西洋砲術の知識をもつ勝三に西洋銃の調達を依頼し、また、歩卒50人の砲術伝習も依頼します。

実業の世界へ

砲術の伝習を終えた勝三は正田に誘われて横浜に赴きます。勝三はそこで貿易事業の盛況を目の当たりにし、時代の変化を感じ、実業界に身を投じることを決心します。

勝三は、横浜の税関(運上所)で鑑定役を請け負っていた、金物問屋の伊勢屋の主人・伊勢平こと岡田平作に、鑑定人として雇われます。あるとき、運上所の倉庫が火災にあい、被災して安く売り出されていたオランダ銃を買い占めた勝三は、それを転売し、大きな利益を伊勢屋にもたらします。これをきっかけに、日本橋品川町にあった伊勢屋の江戸本店(現在の日本橋三越がある辺り)に栄転します。

ところが、当時、顔料や薬品として重宝されていた朱を、海外から輸入し、密売した罪で捕縛され、小伝馬町の牢獄で2か月間過ごすことになります(補足1)。さらに、仮出獄の身でありながら、アメリカ商館からライフル銃を買い入れたことが奉行所に発覚。再び捕縛され、今度は、石川島の人足寄場で2年4か月もの間、労働奉仕することになります(補足2)。

このとき獄中で、のちに日本で初めてガス事業を興し、横浜にガス灯を建て、高島町(横浜)の地名を残した実業家・高島嘉右衛門(かえもん)と知り合います。

銃器の販売へ

出獄後、勝三は伊勢屋に戻ります。しかし、伊勢屋が蚕紙(さんし)の輸出を独占していたことをフランス公使に咎められ、幕府によって、岡田平作・平蔵親子は捕縛され、財産も没収されてしまいます。勝三は、これを機に、神田弁慶橋のたもとに銃砲店を構え、また、銃砲に付随する革具の製造を始めます(補足3)。

その後、1866年には横浜太田町にも出店。さらに、1867年、弁慶橋の店舗を日本橋本材木町3丁目(現在の宝町周辺)に移転し、屋号を伊勢勝とします。これは伊勢屋・岡田平作の通称である伊勢平にちなんだものです。

明治維新直前の不穏な空気の中、銃器の販売は勝三に大きな利益をもたらします。ただ、譜代大名・堀田家に仕えていた勝三は、徳川幕府への忠心から、戊辰戦争の際、旧幕府側にのみ銃器の便宜を図っていたため、新政府によって、一時、店が閉鎖され、家族、従業員が拘束される事態にも遭遇しています。

(補足1) 朱は当時、朱座(朱の同業組合)の専売であったため、私人による売買は違法でしたが、一方で、幕府が締結した外国との通商条約において、外国との取引は禁止されていませんでした。勝三は、通商条約に基づいて取引を行っていました。

(補足2) 仮出獄中の勝三は、江戸から出ることを禁止されていました。再び捕縛された理由は、その禁を破って、江戸と横浜間を往来し、かつ、武器の出入りを監視していた横浜の関所において、ライフル銃を他の商品に紛れさせて通過させたためです。

(補足3) 弁慶橋は明治22年に現在の紀尾井町に移築されますが、当時は、神田岩本町にありました。この橋はS字に曲がる藍染川を覆うように架けられた独特な形をしていたため、江戸名所に数えられていました。なお橋の名は、橋を作った大工・弁慶小左衛門に由来します。また、岩本町の同地には現在、案内板が立っています。

左:安政6年(1859年)の地図   右:『江戸名所図会』 本文之部(国立国会図書館デジタルコレクションより)。地図と江戸名所図会で橋の形が異なっていますが、おそらくは、江戸名所図会の方が正しいと思われます。

『江戸名所図会』 挿絵之部(国立国会図書館デジタルコレクションより)。左のページが弁慶橋の絵。

靴と革

時代は明治へと移り変わり、勝三は、明治2年、兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎から軍靴の納入を依頼されます。勝三は始め洋靴を輸入して納品しましたが、洋靴は日本人の足に合わず、大村からは軍靴の国産化を打診されます。勝三はそれを受け、早速、築地入舟町5丁目に伊勢勝製靴工場(伊勢勝造靴場)を設立し、翌明治3年3月15日から製造を開始します。また、同年10月には、同地に製革所も建設します(製革所は翌年、向島須崎町に移転)。

このため現在、3月15日は『靴の記念日』になっています。なお、築地入舟町の工場の跡地には現在、『靴業発祥の地』の碑が立っています。碑の文字は、佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の孫にあたる、元佐倉市長・堀田正久氏によるものです。

明治4年、兵部省から今後10年間に毎年10万足の軍靴の納品を依頼されると、勝三は積極的な設備投資を行います。しかし、明治7年、兵部省から変った陸軍省は契約を反故にし、納入数を向こう4年間で年2万5千足に減らします(補足4)。窮地に陥った勝三ですが、ここで撤退してしまっては日本の製靴業が消滅してしまうという思いから、岡田平蔵らの支援を受けながら、逆に、築地1丁目1番地に工場を増設します。また、明治8年には、銀座3丁目16番地に伊勢勝の靴店を出店します。靴店の場所はおそらく、現在の松屋銀座の北西角です(補足5)。

明治17年の地図。築地入舟町5丁目の工場がいつまで存在したのかは不明。明治21年の官報には伊勢勝製靴工場(桜組製靴所)として、入舟町の住所は記載されていません。

現在の地図(品川区HPより)。築地1丁目1番地は、現在、中央区役所になっています。右端の赤星は、『靴業発祥の地』の碑文。なお、築地入舟町5丁目は、筆者の比定によると、地図中のような位置づけになります。

明治20年頃の地図。製革所は、明治4年に築地入舟町から向島須崎村に移転しています。跡地は現在、銅像堀公園となっています。

ところが、安価な舶来品に人気が集まり、靴を取り巻く環境はなかなか好転せず、苦しい経営が続きます。さらに明治10年には、複数の工場が次々に火災に見舞われ、経営は行き詰り、結局、伊勢勝は一旦、幕を閉じることになります。

しかし、佐倉藩の旧藩主・堀田家(補足6)からの出資と、堀田家の家令・依田紫浦(読み方不明)を番頭に迎え、新たに依田西村組として再建されます。ただ、経営は依然として厳しいままでした。それでもなんとか明治17年には、債務を完済。あわせて名称を、佐倉藩にちなんで桜組に変更します。

その後、明治35年、桜組は、大倉組皮革製造所(補足7)、東京製皮、福島合名の各社の製靴部門を合わせ、日本製靴株式会社となります。さらに、平成2年(1990年)、社名を株式会社リーガル・コーポレーションに変更し、現在に至っています。

また、桜組の製革部門の方は、その後、明治40年、大倉組皮革製造所、東京製皮、両社の製革部門と合わせ、日本皮革株式会社となります。さらに昭和49年(1974年)、社名を株式会社ニッピに変更し、現在に至っています。

渋沢栄一記念財団HPより

(補足4) 明治4年に兵部省から依頼された軍靴の納品数と、その後に陸軍省から依頼された納品数については、資料によってバラつきがあります。先述の数字は、明治32年(1899年)に東京靴工倶楽部が出版した『製靴図集』を出典としています。

(補足5) 明治21年の官報によると、桜組の製靴工場と靴店の住所はそれぞれ、築地1丁目1番地、銀座3丁目16番地となっています。

(補足6) 勝三が仕えた佐倉藩の堀田家は、1648年(徳川家光の治世)、品川神社に今でも残る、石造りの鳥居を寄進した堀田正盛(佐倉藩)の傍系です。鳥居の柱に龍の彫刻がなされているため『双龍鳥居』と呼ばれています(Googleマップ)。

左:品川神社本殿(東京の観光公式サイト「GO TOKYO」より)  右:堀田正盛が寄進した石造りの鳥居(Wikipediaより)

(補足7) 大倉組皮革製造所は、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が興した会社です。大倉喜八郎の子・喜七郎は、ホテルオークラの創業者として有名です。

メリヤス

明治4年、勝三は築地1丁目でメリヤスの製造も始めています。メリヤスとは元来、編み物という意味ですが、日本では靴下のことをさします。スペイン語のメディアス、ポルトガル語のメイアスがその語源です。

靴を履くためには靴下が必要です。当時は高価な舶来品に頼っていたのですが、明治政府からの奨励もあって、勝三はその国産化を目指します。当初は、兵部省がそれを買い上げていたため経営も順調でしたが、次第に同業者の数が増え、値下げ競争が激化。明治10年には、陸軍省の買い上げ先が大倉組と三井物産に移行してしまい、結局、経営に行き詰まり、廃業します。

ガス事業

勝三は、ガス事業にもかかわっています。そもそも日本初のガス事業は、明治5年に始まります。事業を興したのは先述の高島嘉右衛門(かうえもん)です。嘉右衛門は、横浜の桜木町にガス製造工場を設立し、横浜の馬車道にガス灯を建てました(記念碑『日本で最初のガス灯』)。ガス灯が建てられた10月31日は『ガスの記念日』になっています。なお、横浜のガス事業には当初、勝三も参画していたようです。また佐倉藩の旧藩主・堀田家も出資しています。

左:高島嘉右衛門(iTSCOM Chより) 右:明治10年頃の横浜瓦斯局(『品川産業事始』(品川区立品川歴史館出版)より)

明治29年の横浜桜木町周辺の地図。左が南、右が北。高島嘉右衛門の興したガス工場は明治29年に横浜市瓦斯局に引き継がれます。なお、左下のステーションは現在の桜木町駅。現在、瓦斯局跡には、本町小学校が建っています。

東京では、その2年後の明治7年にガス事業が始まります。創業者は、東京会議所です。東京会議所は、江戸時代に老中・松平定信が創始した江戸町会所(まちかいしょ)を起源とするもので、江戸町人による自治会、町内会のようなものです。町会所では、地域の名主が集まってお金やお米などを積み立て、庶民の生活改善に役立てていました。江戸には21組の町会所があったといわれています。

それが明治になって、東京府下全体を単位とし、数名の商人を委員とする東京会議所に引き継がれていました(当初の名称は東京営繕会議所)。ガス事業は、庶民の生活改善の一環として、東京会議所が興した事業です。勝三は、東京会議所の委員として、ガス事業の推進役を担いました。

ガス工場の建設へ

明治7年、東京会議所は高島嘉右衛門に委託し、芝離宮の南(浜崎町)にガス工場を建設します。現在、東京ガスの本社はこのガス工場の跡地に立っています。

左:明治17年の地図。芝離宮の南に東京瓦斯局があります。  右下:明治11年の東京瓦斯局。手前に鉄道(東海道線)が走っているので、西から東(海)に向けて撮影されたと思われます(東京ガスHPより)。 右上:東京ガス本社。海から西に向けた画像。(Google Earth)

また、ガス工場の完成時には、古川に架かる金杉橋(浜松町)から汐留川に架かる新橋、京橋川に架かる京橋へと続く、現在の銀座通り沿いに85基のガス灯が建てられました(補足7)。ガス灯はその後、街灯としてだけではなく、室内灯としても普及していきます。

明治9年に東京会議所は解散したため、ガス事業は東京府に引き継がれ、東京瓦斯(ガス)局による公営事業となります。勝三は、東京瓦斯局の副事務長に就任します(事務長は渋沢栄一)。さらに、明治18年、東京瓦斯局は民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へと引き継がれていきます。

明治7年、金杉橋~新橋は45m間隔、新橋~京橋は27m間隔で合計85基(86基とする資料もある)が設置されました。巷間よく言われる『銀座のガス灯』はこのときに建てられたものです(『煉瓦とガス燈』の碑)。

(補足7) 明治8年には、京橋から日本橋、万代橋(万世橋)まで、さらには常盤橋から浅草橋に至る本町通り沿いにガス灯が建設されました。

明治8年にガス灯が設置された場所。常盤橋から本石町までガス灯が建っていたかどうかの確証はありません。どこかの資料でその記述を見た記憶があるのですが資料の所在を失念してしまいました。

以上で、前編は終了です。次は中編に続きます。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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