御殿山今昔物語 第十六回「西村勝三」(中編)

御殿山今昔物語 第十六回「西村勝三」(中編)

「品川御殿山」地区の歴史に迫る「御殿山今昔物語」第16弾。「御殿山の主たち」シリーズ、5人目は、明治の工業の父・西村勝三です。今回はその中編をお送りします。

実業の世界へ、つづき

前回は、西村勝三の生い立ち、そして「明治の工業の父」と言われる所以である、実業家としての歩みをご紹介してきました。銃器、靴と革、メリヤス、ガス事業と続き、本編では耐火レンガから始まります。

耐火レンガ

勝三は、白煉瓦(しろれんが)の製造も手掛けています。白煉瓦とは、耐火レンガのことで、当時は、ガス発生炉用の耐火レンガとしての使用が見込まれていました。

おそらく、かつて、正田利右衛門から依頼された製鉛用の反射炉の製造に失敗した苦い経験が、勝三を耐火レンガ事業に向かわせたものと思われます。

明治8年、勝三は、先述の浜崎町のガス工場の付属地(現在の東京ガス本社所在地)に耐火レンガ製造所を建設します。おそらく、当時はまだ耐火レンガが輸入品であったため、勝三はその国産化を目指したのではないでしょうか。ちなみに、勝三が作ったこの耐火レンガ製造所には、特に名前は付けられなかったようです。

明治17年、勝三は、工部省所管の深川工作分局にあった耐火レンガ製造所の払い下げを受け、浜崎町のレンガ製造所を深川に移転合併し、名称を「伊勢勝白煉瓦製造所」とします。

白煉瓦という名称は、建築用の赤レンガと区別して、勝三が名付けたものです。耐火レンガは鉄分が少ない土を使用するため、色が白くなります。当時は他に焼石、不熔白煉化石などとも呼ばれていました。

なお、深川工作分局とは、清澄(当時は清住)町の仙台藩伊達家の蔵屋敷跡(現在の清澄庭園の西)に明治政府が建設した官営工場です(Googleマップ)。

同所には、耐火レンガの他に、セメントや人造石の製造所も併設されていました。そのうち、セメント製造所は、浅野惣一郎に払い下げられています。このセメント製造所が、日本セメントを経て、現在の太平洋セメント株式会社へと引き継がれていきます。深川工作分局跡地には現在、『本邦セメント工業発祥の地』の碑が建っています。

明治17年の地図。西は隅田川、南は仙台堀川。もともとは仙台藩伊達家の蔵屋敷でした。なお、のちの清澄庭園は当時、三菱財閥の岩崎家が所有していました。

左は、明治8年当時、右は明治23年当時の浅野(セメント)工場の様子(『日本セメント100年の歩み』(日本セメント株式会社)より)

安政5年(1859年)の地図。『松平陸奥守』(仙台藩伊達家)と記載されている地域が、深川工作分局。なお、後の清澄庭園は当時、下総関宿藩(千葉県野田市)久世家(大和守)の下屋敷でした。

明治20年、勝三は、深川の工場を品川の御殿山、居木(いるき)橋のたもと、御殿山の西村邸から直線距離にして100mのところに移転し、名称を品川白煉瓦製造所と改めます(Googleマップ)。工場の東隣りには、勝三が経営していた品川硝子(ガラス)製造所がありました。品川硝子製造所にはついては後編でご紹介します。

明治44年の地図。勝三が御殿山に邸を構えたのは明治32年頃。その頃にはすでに品川硝子製造所は廃業し、跡地には三共(現・第一三共)が工場を構えていました。品川白煉瓦製造所は、昭和2年までこの地で操業していました。

品川白煉瓦は、その後、建築用の装飾レンガ(赤レンガ)などにも事業を拡大し、現在は、セラミックをはじめとする総合耐火物メーカーへと発展しています。平成21年(2009年)、JFE炉材株式会社と合併し、現在は品川クラフトリーズ株式会社となっています。

なお、品川白煉瓦製造所は昭和2年に閉鎖され、昭和4年、残存設備を川崎市大島に移転して新たな工場を開設しています。御殿山の跡地には現在、マンションや商業ビルが立っています。

現在の地図(品川区HPより)

品川白煉瓦製造所(『品川産業事始』(品川区立品川歴史館出版)より)

東海寺

なお、品川白煉瓦製造所のあった御殿山の場所は、江戸時代は東海寺の境内でした。

東海寺は、三代将軍・徳川家光の治世だった1639年に、沢庵和尚が開山した臨済宗の寺院です。江戸の当時、東は第一京浜から、西は居木橋に至るまで、約48,000坪、東京ドーム3個分にも及ぶ広大な敷地を誇っていました。しかし、明治4年の社寺領上知(あげち)令(寺領の没収命令)や、本坊(本堂)を品川県の県庁舎にする計画(計画は中断)によって寺域が縮小。明治5年には、敷地を分断するように鉄道(東海道線)が敷設されました。品川白煉瓦は、そんな寺域の西の端、もともと少林院、御聖院、白雲庵などの塔頭(たっちゅう。境内にある小寺)があった場所に建設されました。なお、東海寺は現在、塔頭の1つだった玄性院を本坊(本堂)として、ひっそりと佇んでいます。

青の網掛の部分が、品川白煉瓦製造所が建設されたエリア。本堂跡地には、現在、品川区立品川学園が建っています。寺域は東西におよそ600m、南北(目黒川南岸も含めて)におよそ400m。(『品川産業事始』(品川区立品川歴史館出版)より)

現在の地図に往時の東海寺の寺域を比定。実際には目黒川の南にも寺域がありました。(地図:品川区HPより)

Googleアース

東京駅と品川白煉瓦

品川白煉瓦製造所(明治36年からは品川白煉瓦株式会社)が、化粧レンガの赤レンガも製造していたことは先述したとおりですが、その赤レンガの代表的な納入先が、大正3年に完成した初代東京駅です。

初代東京駅(日本ホテル株式会社HPより)

東京駅には、外壁部と構造部、あわせておよそ830万個の赤レンガが使用されました。品川白煉瓦は、そのうち、外壁部のおよそ85万個分のレンガを全納しています(補足1)。

なお、構造部は、埼玉県深谷市に工場を構えていた日本煉瓦製造株式会社によって納入されました。日本煉瓦製造は、明治20年、深谷市出身で『日本資本主義の父』と呼ばれた渋沢栄一や、三井物産を創業し、御殿山で西村邸の隣に邸宅を構えていた益田孝らによって創業された会社です。深谷市は、この功績を後世に伝えるため、平成8年(1996年)、深谷駅を東京駅そっくりに建て替えています。ただ、日本煉瓦製造は、平成18年(2006年)にその幕を閉じています。

深谷駅(埼北移住HPより)

なお、平成24年(2012年)、東京駅は創建当時の姿に再建されましたが、そのときのレンガは、LIXIL(旧INAX)によって納入されています。

東京駅以外の品川白煉瓦の納入先には、平成26年(2014年)に世界文化遺産に登録された富岡製糸場、先述した横浜のガス製造工場、汐留の新橋駅構内にあった火力発電所、明治神宮、帝国劇場などがあります。

[補足1] 品川白煉瓦の納入数を95万個とする資料もあります。また、品川白煉瓦の他に大阪窯業や長坂煉瓦製造所を含めている資料もあります。

戸越銀座商店街と品川白煉瓦

左:Googleストリートビュー、右:東京観光公式サイト『GO TOKYO』より

日本全国に銀座と名の付く商店街は300以上あるといわれていますが、その先駆けとなったのが品川区の戸越銀座商店街です。戸越銀座は、東急池上線の戸越銀座駅を中心に、全長1.2~1.6Kmにも及ぶ、日本有数の長さを誇る商店街です。この商店街が銀座と名乗り始めたきっかけは、大正12年の関東大震災といわれています。

その経緯については、およそ次のような逸話が伝えられています。

震災で被災した本家・銀座(中央区)のレンガ街が、その復旧に際し、ガレキと化したレンガの処分に苦慮していたところ、戸越商店街がそれを譲り受け、水はけの悪かった商店街の排水施設にレンガを再利用した。その縁で銀座を名乗り始めた。戸越に近かった品川白煉瓦が、銀座と戸越商店街を仲介した。というものです。

ただこの逸話には、

  • 銀座レンガ街のレンガは、そもそも品川白煉瓦が製造したレンガだった
  • 震災後、銀座のレンガ敷きの道路を(アスファルトに)舗装替えするため、不要となったレンガを譲り受けた
  • 震災後、銀座のガス灯に使用されていた品川白煉瓦の耐火レンガ(白レンガ)を譲り受けた
  • 譲り受けたレンガを戸越商店街の大通りに敷き詰めた
  • 譲り受けたレンガを河川の暗渠化の整備に再利用した

など、微妙に内容の異なるものがネットや書籍に流布されています。どの説が正しいか、判断は難しいのですが、筆者が調べた限りで判明したことを以下に列挙します。

銀座レンガ街のレンガは品川白煉瓦が製造したのか?

そもそも、銀座がレンガ街となったのは明治5~10年にかけてです。そのきっかけは、明治5年、皇居の和田倉門内の旧会津藩邸から出火して、丸の内、銀座、築地までを焼き尽くした大火災でした。明治政府はこの大火をきっかけに、当時、東京の玄関口だった新橋駅に近い銀座を不燃都市とすべく、レンガ街へと再建しました。提唱者は、大蔵大輔の井上馨とも、東京府知事の由利公正(きみまさ)ともいわれています。

そのときに使用されたレンガは、小菅(葛飾区)にあった盛煉社(補足2)という民間のレンガ製造所によって製造されたものとされています。

また、銀座にガス灯が建てられたのは明治7年。一方、勝三が現在、東京ガス本社がある場所で耐火レンガの製造を始めたのは明治8年。また、建築用の赤レンガを品川白煉瓦が製造し始めたのはもっと後になってからです。

つまり、銀座レンガ街のレンガは、品川白煉瓦のものではなく、また、ガス灯に使用されたレンガも品川白煉瓦のものではない、ということになります。

ただ、レンガ街が出来上がった後、メンテナンスで品川白煉瓦製の赤レンガが使用された可能性は大いにあります。

『東京府下第一大区尾張街煉化石造商法繁盛之図』(国文学研究資料館より)。明治6年の尾張町(現・銀座5丁目)の様子。中央通り(銀座通り)には、両側にレンガ造の建物が建ち、道路は、歩道(レンガ敷)と車道に区別され、街路樹(松、桜、楓)が植えらました。なお、実際には中央通りはカーブしていません。ちなみに、明治8年、伊勢勝製靴は銀座3丁目16番地に販売店を出店しています。店舗は中央通り沿いにあったようなので(おそらく、現在の松屋銀座の北西角)、このレンガ街の1店舗が、伊勢勝製靴の店舗だったものと思われます。

[補足2] 盛煉社(せいれんしゃ?)は、明治5年、小菅(葛飾区)にあった江戸町会所の籾蔵跡に、3人の民間人によって設立されたレンガ製造所です(江戸町会所については、前編をご参照ください。)。明治6年、銀座レンガ街を設計した英国人技師ウォートルスの指導によって大量生産を可能としました。なお、小菅の籾蔵跡はもともと徳川吉宗が鷹狩りの際の休憩所としていた小菅御殿の跡地です。明治12年、レンガ製造施設は同地に建設された小菅集治監(監獄)に移管され、関東大震災(大正12年)で被災するまで、囚人の役務としてレンガ製造が行われていました。小菅集治監は現在、東京拘置所となっています。

明治前期の地図(歴史的農業環境閲覧システムより)。小菅集治監(現・東京拘置所)の敷地内に、レンガ製造炉窯と思われる記号が3つ記載されています。なお、点線は河川敷を含めた、現在の荒川水域を表します。荒川(放水路)は明治44年に着工し、大正13年に完成しました。

現在の地図(国土地理院HPより)。常磐線は明治29年(土浦線)に開業。東武伊勢崎線の開業は明治32年ですが、現在の線形になったのは大正12年です。ちなみに、昭和24年に発生した下山事件の現場は、両線の交差点の東(右)側です。

震災後、銀座では本当に舗装替えが行われたのか?

銀座の道路(銀座通り・中央通り)は歩道のみがレンガ敷で、車道はレンガ敷ではありませんでした。しかもその歩道は、京橋から銀座5丁目の区間が明治21年(震災前)の段階で、すでにコンクリート敷きになっています。また、銀座5丁目から新橋の区間は、昭和9年(震災後)になって初めてコンクリート敷きになっています。このことからすると、震災と舗装替えに因果関係を見つけることができません。

ただし、上記はあくまでも銀座通り・中央通りに限ったことなので、その他の通り、例えば晴海通りなどについては、震災をきっかけに舗装替えが行われた可能性が残っています。

資料『戸越銀座の空間と歴史』によると

筆者が調べた限りでこの件について最も詳細に分析していた資料は、日本デザイン機構創刊『Voice of Design』(Vol21-1)の中で天内大樹氏(静岡文化芸術大学デザイン学部講師)が著されていた『戸越銀座の空間と歴史』(以下、単に資料と呼ぶ)でした。

資料によると戸越銀座は、震災後、(銀座通り・中央通りではなく)晴海通りの拡幅と舗装替えの際、舗装用の赤レンガとガス灯用の耐火白レンガを譲り受けたのではないか、と記しています。

確かに資料の中で出典とされている書籍『品川区史2014』(品川区発刊)には 『アスファルト舗装で不要になった銀座の道路のレンガを譲り受け、水路を暗渠化してこれを敷いた』と記されています。

また資料では、そもそも地震では銀座のレンガ街は倒壊しなかったし、その後の火災によってもレンガがガレキになることはなかった、ということを野口孝一氏著『銀座物語』(中公新書)を出典として記してもいます。つまり、商店街が譲り受けたレンガは、ガレキと化して処分に困っていたレンガではなかったのではないかということです。

ただ、震災直後の銀座の写真をみる限り、筆者(私)には、レンガはガレキとなっているように見えます。また『銀座物語』をサラッと読んだ限りはありますが、そもそもこの本の中に、震災(地震と火災)によってガレキになることはなかった旨の記述を発見することができませんでした。

震災後の銀座周辺(時事ドットコムニュースより)

また、ガス灯に使用された白レンガは耐火レンガではなく、単に色が白いレンガだったのではないかと、筆者(私)は思っています。ガス発生炉にとって耐火レンガは必要ですが、ガス灯そのものに耐火レンガを使用する必要はないように思うからです。ただ、この件については筆者(私)の憶測にすぎません。

そもそも戸越銀座商店街ができたのは震災後では

資料にはさらに、そもそも震災のとき、戸越商店街はまだ形成されていなかった、商店街が形成されたのは、おおよそ東急池上線・戸越銀座駅ができた昭和2年以降ではないか、とも記されています。

確かに、大正15年出版(震災の3年後)の地図をみても、商店街といえるほどの街並みは見当たりません。

震災から3年後、大正15年の戸越銀座周辺。青のラインが後の商店街。当時は建物が点在するのみ。

現在の戸越銀座周辺。オレンジのラインが商店街。(地図は品川区HPより)

さらに言えば、前出の『品川区史2014』にも、『昭和2年7月、商店街をつくるため(中略)レンガを譲り受け』た、と記載されています。

また天内氏の資料にも書かれていますが、昭和2年は、品川白煉瓦が工場を閉鎖した年(10月)でもあるので、もしかしたら、品川白煉瓦からレンガの供出があったのかもしれません。

なお、商店街は、もともと高台に挟まれた谷間に広がる田んぼを埋め立てて形成されたため、水はけが悪かったのは確かなようです。

①JTP本社 ②品川白煉瓦跡 ③戸越銀座商店街(戸越銀座駅)。②から③までの直線距離はおよそ1.7Km (Ground Interface.より)

以上が、検証結果です。

なお、戸越銀座商店街オフィシャルウェブサイトには、戸越銀座商店街を構成する3つの商店街のうちの1つ『戸越銀座銀六商店街』の『銀六』が、レンガを譲り受けた銀座6丁目に由来する旨が記載されています。ただ、『銀座6丁目』という番地は、昭和5年になって初めて誕生した番地であり、それ以前(震災当時)は、尾張町2丁目でした。

また、戸越銀座商店街には現在、『戸越と銀座 ゆかりの碑』(Googleマップ)が建てられています。そこには碑文とともに品川白煉瓦で製造された白レンガが展示されています。

品川区公式チャンネルしながわネットTV『品川歴史探訪 文明開化を支えた品川の産業』より

以上で、中編は終了です。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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