御殿山今昔物語 第十七回「西村勝三」(後編)

御殿山今昔物語 第十七回「西村勝三」(後編)

「品川御殿山」地区の歴史に迫る「御殿山今昔物語」第17弾。「御殿山の主たち」シリーズ5人目は、明治の工業の父・西村勝三です。今回はその完結編となる後編です。

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御殿山今昔物語 第十七回「西村勝三」(前編)
御殿山今昔物語 第十七回「西村勝三」(中編)

品川硝子製造所

銃器、靴、革、メリヤス(靴下)、ガス、耐火レンガと幅広く事業を展開していた勝三ですが、明治18年からは、ガラス製造事業にも手を伸ばします。

明治6年、太政大臣・三条実美(さねとみ)の家令・丹羽正庸(にわまさつね)と村井三四之助は、後に勝三が御殿山に構えた邸から400メートルしか離れていない、東海寺境内の塔頭・泰定院と慈雲庵の跡地(Googleマップ)に、板ガラス(窓ガラス)製造を目的とした興業社を設立します。洋館の建設が急増していたことと、舷灯(航海灯)の需要が増していたことがその理由です。

しかし、興業社は、はかばかしい成果を上げることができず、3年後の明治9年には工部省に買い上げられ、官営の品川硝子(ガラス)製造所として引き継がれます(明治10年からは品川工作分局、明治16年からは再び品川硝子製造所となります)。

明治12年の地図

東海寺の境内(『品川産業事始』(品川区立品川歴史館出版)より)

政府は、ガラス産業の重要性と技術者の育成を重視し、赤字覚悟で事業を継続していましたが、舷灯用ガラスの製造や洋食器の製造には成功したものの、業績の回復には結びつかず、また、板ガラスの製造も果たせずにいまいた。そのため、明治18年、結局、品川硝子製造所は勝三に払い下げることになります。

払い下げを受けた勝三は、事業の合理化と設備投資によって生産量を上げることに成功します。また、明治21年には名称を品川硝子会社に変更し、さらなる事業拡大を目指します。当時、麒麟麦酒(キリンビール)が新発売されるのに伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を実現しています。

しかし、肝心の板ガラス製造は難航を極め、また、経済不況の影響をあって経営は行き詰まり、結局、明治25年、品川硝子会社は解散することになります。

その後、工場跡地は三共株式会社(現在の第一三共株式会社)に引き継がれ、現在に至っています。

なお、品川硝子製造所(興業社、品川工作分局)の跡地には現在、『近代硝子工業発祥之地』の碑が建てられています(Googleマップ)。また、品川硝子製造所時代に使用されていた工場の建物が、愛知県犬山市の明治村に移築されています。

地図は品川区HPより

板ガラス(窓ガラス)のその後

板ガラスの製造は、その後も困難を極めます。帝国議会は、明治35年に『窓硝子製造保護奨励に関する建議案』を可決して、国を挙げて板ガラス製造を支援する体制を整えたほどです。

そしてついに、三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助(初代・弥太郎の弟)の次男・岩崎俊弥が興した旭硝子株式会社によって、明治43年、本格的な製造、販売に成功します。

左:岩崎俊弥(AGC旭硝子HPより) 右:島田孫市(『人物画伝』 国立国会図書館デジタルコレクションより)

ただ、その8年前の明治35年(36年、37年とする資料あり)の段階で、島田硝子製作所によって板ガラスの試験的な商品化が行われています。島田硝子製作所は、品川硝子製造所の伝習生だった島田孫市が、明治21年に興した会社です。

なお、島田孫市は明治39年、岩崎俊弥とともに大阪島田硝子製造所を興してもいます。その後2人は袂を分かち、岩崎は明治40年に旭硝子株式会社を興しました。島田硝子と旭硝子はそれぞれ、現在の東洋ガラス株式会社、AGC旭硝子に引き継がれています。

銅像堀公園

現在、向島の隅田川沿いに、銅像堀公園という公園があります(Googleマップ)。

現在の地図(goo地図)

銅像堀と言いながらなぜか公園内には銅像は立っていません。これは、以前立っていた像が昭和39年頃に撤去されてしまったからです。立っていた像は、もちろん、西村勝三です。もともとこの地は、明治4年に築地から移転した製革工場があった場所です。一時期は、勝三の邸宅もあったようです。

銅像は高村光雲の作で、明治39年、勝三が亡くなる1か月前に除幕しました。しかし、太平戦争中の金属回収令によって供出されてしまい、その後しばらくの間、台座だけが立つ無残な光景となっていました。しかし、昭和24年、石像として再建されます。

ただ、周囲の環境が勝三の偉業を偲ぶ地としてふさわしくないほどに変化してしまったため、昭和39年頃に解体。代わりに、胸像が神田鍛冶町の日本靴連盟の合同ビル内に建てられました。

左:大正10年の地図。銅像堀公園の様子を窺い知ることができます。 右:明治43年頃の西村勝三の銅像(『京浜所在銅像写真』 国立国会図書館デジタルコレクションより)

明治20年頃の地図

ちなみに、大正から戦後にかけて、銅像堀公園の北隣、堀を挟んだ向かいには大倉財閥の創始者・大倉喜八郎の別荘『蔵春閣』が佇んでいました。別荘が建つほど、本来、この地には趣があったのですが、現在は、首都高速が頭上を往来し、周りには無機質な倉庫が立ち並んでいます。

御殿山・西村邸のその後

『日本紳士録』によると、西村勝三が御殿山の地に邸宅を構えていたのは、明治32年頃のようです(Googleマップ)。勝三が明治40年に72歳でこの世を去ったことを考えれば、その最晩年を御殿山の地で過ごしたことになります。ちなみに、明治32年以前の住所は、築地1丁目、あるいは、向島須田町です。いずれも製革工場のあった住所と同じかその近所と思われます。

『日本紳士録』によれば、勝三の死後、四男・西村直(株式会社ニッカトーの創業者。昭和57年没)が邸宅を引き継いだことになっています。ただし、大正7年を最後に『日本紳士録』から、西村家の御殿山の住所はなくなっています。

大正6年の地図

弊社トレーニングセンターからの眺望

西村邸の様子(『靴の歴史散歩88』より)

また、大正15年の地図には、西村邸跡に『米村邸』と記されています。しかし、米村氏についてはその素性を確認することができませんでした。

金子元三郎

昭和16年出版の地図には、西村邸と同じ場所に『金子邸』と記されています。

昭和16年の地図(品川図書館より)

金子とは、金子元三郎(もとさぶろう。昭和27年没)のことです。金子元三郎は、北海道小樽出身の実業家、政治家です。明治32年には初代小樽区長を務めました。小樽にある金子元三郎商店跡は、現在、小樽市指定歴史的建造物となっています。『日本紳士録』によると、金子氏が西村邸跡地に住居を構えたのは大正11年からとなっています。国立国会図書館デジタルコレクションでは、昭和19年までの『日本紳士録』しか確認できないのですが、昭和19年まではずっと金子氏となっています。

その後、昭和20年頃、この土地は分譲されたと思われます。昭和22年の航空写真をみると、すでに分譲された様子がうかがえます。

吉川英治

また、作家・吉川英治は、もともと金子邸(西村邸)の敷地内に立っていたと思われる家屋の1つに、昭和28年~32年まで住んでいました(金子氏が建設したのかどうかは不明)。吉川は、この家で『新・平家物語』を完結させています。その家屋の建築年は昭和8年です。その家屋は、現在も建設当時の姿を保ったまま今に至っています。平成23年には国の登録有形文化財(小池家住宅主屋)に指定されています。

左:昭和16年の地図。敷地の右上にある家屋は、のちの吉川英治邸でしょうか?  右:吉川英治(椎葉村HPより)

左は昭和11年、右は昭和22年頃の西村邸周辺の航空写真(左:国土地理院HP、右:goo地図より)。点線が吉川英治邸。昭和11年の写真を遠目で見ると建物が建っているにように見えます。

弊社トレーニングセンターからの眺望

江戸時代の西村邸 『大崎園(苑)』

今度は、江戸時代の西村邸周辺の歴史を辿っています。

江戸時代後期(1803~1854年)、西村邸から八ツ山通りに至る一帯(約2万坪)には、大崎屋敷、あるいは、大崎園(苑)と呼ばれた、松江藩7代藩主・松平治郷(はるさと)の下屋敷がありました。

左:松平治郷(Wikipediaより)  右:1850年頃の地図。◎は、JTP本社の所在地。赤エリアは、西村邸。

治郷が藩主に就任した当時、松江藩(島根県)の財政は危機的状況にあったのですが、治郷は大きな手腕を発揮し、財政の再建に成功します。ところが、晩年、茶の道にはまり(茶号は不昧(ふまい))、高価な茶器を買いあさり、財政を再び悪化させてしまいます。

治郷は、この御殿山の地を隠居後の住処とし、千利休が造った茶室で、大阪から移築させた独楽庵を筆頭に11戸もの茶室を建てたといわれています。屋敷は、先述のとおり、大崎屋敷(補足3)あるいは大崎園(苑)と呼ばれました。

なお、松江藩松平家の家祖は徳川家康の次男・結城秀康です。秀康は、2代将軍・徳川秀忠の兄でありながら、家康から冷遇され、将軍になれなかった人です。また、落語『目黒のさんま』に登場する殿様は、松江藩松平家の殿様ということになっています。ただし、治郷というわけではありません(噺家によっても話の設定は変わるようです)。

幕末の地図を現在の地図と重ねた『復元・江戸情報地図』(朝日新聞出版)。赤枠のエリアが西村邸。松平相模守慶徳とは、鳥取藩主・池田慶徳のこと。治郷の死後、池田家が同地を引き継ぎました。◎はJTP本社の所在地。

現在の地図(品川区HPより)。大崎園は、南北およそ390m、東西およそ220m。

治郷の死後の1854年、この地は、鳥取藩池田家の下屋敷として引き継がれます。藩主・池田慶徳(よしとみ)は、15代将軍・徳川慶喜の異母弟です。前年のペリー来航によって不穏な空気が漂うなか、江戸湾防備の一環として、治郷の建てた茶室はすべて取り壊されてしまいます。ただ、独楽庵は、現在、出雲文化伝承館の敷地内に復元されています。

現在、八ツ山通り沿いには、治郷の事績を説明する案内板が、品川教育委員会によって建てられています。

Googleマップ

(補足3)大崎屋敷と呼ばれた大名屋敷にはこの他に、仙台藩伊達家の下屋敷(Googleマップ)、岡山藩池田家の下屋敷(Googleマップ)があります。前者は清泉女子大学、後者は、池田山公園(周辺)に相当します。

西村勝三の言葉

最後に、大正4年に出版された『修養世渡り警句』という書籍に記されている西村勝三の言葉をご紹介します。『実業家の心得べき事』という一文の中にこんな言葉が記されています。なお、一部仮名遣いを修正しています。

取引関係ある外国語を知り、兼ねて、商業歴史及び地理に通暁すべし。商品は文明の進歩に応じ、需要の益々増加するものを選択し、特に新奇発明品に注目せよ。時代の趣味を解し、流行の変遷に注意すべし。広告を活用し、併せて新聞雑誌の報道に注意せよ。

変化の激しいIT業界にぴったりな、そして、筆者にとってはちょっと耳の痛い言葉です。
勝三は、明治40年に没します。東海寺境内の大山墓地(Googleマップ)にて永眠。

以上で、西村勝三の今昔物語は終了です。次回は、緒明菊三郎の今昔物語をお伝えします。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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