御殿山今昔物語 第十九回「緒明菊三郎」(2)

御殿山今昔物語 第十九回「緒明菊三郎」(2)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

嘉吉と菊三郎親子のその後

ヘダ号を建造した7人の船匠(ふなしょう)のうち、菊三郎の父・嘉吉(かきち)を除いた6人のその後については、前回の記事でご紹介しました。今回は、嘉吉のその後をご紹介します。

なお、ヘダ号建造当時9歳だった菊三郎は、この頃すでに嘉吉の作業を手伝っていましたので、嘉吉のその後は、実はそのまま菊三郎のその後とみなすことができます。

ただ、嘉吉については、実はほとんど情報がありません。というのは、ヘダ号建造当時、嘉吉はすでに53,4歳だったため、他の船匠と違って、長崎海軍伝習所や石川島造船所などに入所していないからです。

今回は、ネットで発見した、嘉吉の消息を記す、ほとんど唯一といえる文献をベースにして、嘉吉のその後を、筆者の考察を交えながら追ってみたいと思います。その文献とは、大正8年(1919)に出版された、蘆川忠雄(あしかわ ただお)著「世渡上手の人々」です。

その第十章 「造船界の明星 緒明菊三郎氏」の中に、以下のような嘉吉のその後の消息が記されています。

「氏の父は紀州藩に雇われる身となった、而して御用船の建造をなし、更に筑前大野藩の命に依って現今の川崎大師河原に造船所を設けた、氏は其の時十四歳になって居たから・・・」

文中の「氏」とは菊三郎のことです。

以下では、この内容を考察、検証していきます。

嘉吉と越前大野藩・大野丸

順番が前後しますが、まずは引用文の後半、「筑前大野藩の命に依って現今の川崎大師河原に造船所を設けた、氏は其の時十四歳になって居たから」というくだりについて考察します。このくだりは一体どういうことを意味しているのでしょうか。

まず、いきなりですが、文中の「筑前大野藩」は「越前大野藩」の誤りだと思われます。理由は、筑前(福岡県)に大野という名称の藩が実在しないからです。もちろん、越前(福井県)には大野藩が存在します。

「ちくぜん(筑前)」と「えちぜん(越前)」。音がとても似通っていますので、著者の蘆川はついつい誤ってしまったではないでしょうか。

そう考えると、更に面白いことが分かってきます。

左:越前大野藩は現在の福井県大野市に相当します。(Googleマップより)
右:越前大野藩7代藩主・水野利忠。西洋式帆船・大野丸は、利忠の治世に建造されました。(画像:Wikipediaより)

実は越前大野藩は、ヘダ号建造の2年後、安政4年(1857)に大野丸という西洋式帆船を建造しています(進水は安政5年6月(1858))。しかも、その船の構造は、ヘダ号と同じ君沢形です(正確には、帆の形が若干異なる箱館形)。

こうなると、ますます誤記の可能性が高まってくるのですが、それと同時に、さらに別な視界が開けてきます。もしかすると、嘉吉は、この大野丸の建造に関わっていたのではないか?という可能性です。

さらに調べてみると、「福井県史 通史編4」(1996年刊行)に、大野丸が「川崎稲荷新田」という土地で建造されたことが記されていました。実は、この「川崎稲荷新田」、詳細は後ほど解説しますが、引用文にあった「川崎大師河原」とほぼ同じ土地を意味します。

西洋式帆船・大野丸の建造、しかも君沢形。川崎大師河原と川崎稲荷新田の一致。

偶然もここまで重なってくると、確信に変わってきます。

つまり、「筑前大野藩の命に依って現今の川崎大師河原に造船所を設けた」という一節は、「ヘダ号建造の2~3年後に、越前大野藩の大野丸の建造に関わった」ということになるのではないでしょうか。

もちろん、実際には「氏の父は・・・筑前大野藩の命に依り・・・川崎大師河原に造船所を設けた」とだけ記されていますので、素直に「嘉吉と大野丸とは一切関係なく、筑前大野藩の命令で嘉吉は川崎大師河原に造船所を造っただけ」と解釈することも可能です。むしろその方が自然です。さらに言えば、大野丸が建造されたのはヘダ号建造の2~3年後、つまり、菊三郎が11、12歳の頃の出来事のはずなのに、引用文では14歳となっていて、辻褄もあっていません。(「世渡上手の人々」は、別な箇所で、ヘダ号建造当時の菊三郎の年齢を9歳と記しています。)

ですが、筑前大野藩は存在しないが、越前大野藩は存在する。ヘダ号建造後に大野丸が建造されている、しかも君沢形。大野丸の建造地は、川崎大師河原。という3つの事実を目の当たりにすると、筆者としては先の結論を信じたくなってきます。ちなみに、越前大野藩には大野丸以降、新たに別な船を建造した事実は見当たりません。

よって筆者の願望を込めた、嘉吉と菊三郎のその後は、「ヘダ号建造の2~3年後、越前大野藩の大野丸の建造に関わった」ということになります。

検証・川崎稲荷新田と川崎大師河原

昭和7年(1932)の多摩川河口周辺の地図(地名保存委員会&古地図より)

「福井県史 通史編4」で、大野丸が建造されたとする川崎稲荷新田とは、寛永年間(1600年代前半)に、池上幸繁と石渡四郎兵衛らによって、多摩川(六郷川)の河口に開墾された新田です。御利益のあった大師稲荷神社にあやかって、稲荷新田と名付けられました。新田は、江戸時代を通じて稲荷新田村として存在していました。ちなみに、池上幸繁は、池上本門寺の建立に関わった池上一族の出身です。

上に掲げた昭和7年(1932)の地図(「世渡上手の人々」の出版は大正8年(1919))によれば、かつて稲荷新田(村)だった地域が、昭和7年当時、その周辺を含めて全体として(川崎)大師河原と呼ばれていたことがわかります。

よって、川崎稲荷新田と川崎大師河原は、ほぼ同じ土地を表している(川崎稲荷新田は川崎大師河原に包含される)と考えられます。

天保国絵図・武蔵国。天保6年(1838)作成。稲荷新田村、川崎大師、大師河原村が描かれています。(国立公文書館デジタルアーカイブより)

嘉吉と紀州藩・翔準丸

今度は、引用文の前半、「紀州藩に雇われる身となった、而して御用船の建造をなし」の部分についてです。

嘉吉は、なぜ紀州藩に雇われ、そしてどんな御用船の建造に関わったのでしょうか。

左:紀州藩は現在の和歌山県と三重県南部に相当します。(Googleマップより)
右:安政4年(1857)当時の紀州藩13代藩主・徳川慶福。のちの第14代将軍・徳川家茂。(画像:Wikipediaより)

まず、嘉吉と紀州藩とのつながりについてです。普通に考えて、いきなり紀州藩と出てきて、なにか唐突な感じがします。しかしこれは、戸田村に紀州藩の石切場が存在したことに関係があったのではないかと考えています。

ヘダ号建造時、仮奉行所が置かれた戸田村の名主・勝呂(すぐろ)家は、紀州藩から代々「石場預役」を命じられていました。しかも、戸田村の実際の領主である沼津藩からではなく、紀州藩から苗字帯刀を許可されていたほど、紀州藩との間に深い縁を持っていました。その勝呂家が、嘉吉と紀州藩との間を取り持ったのではないか、と筆者は考えています。

次に、嘉吉が関わった具体的な御用船についてです。

調べてみると、ヘダ号建造の2年後、安政4年(1857)に、紀州藩によって翔準丸という艦船(西洋式船)が建造されていることがわかりました。紀州藩には、翔準丸以外に西洋式船を建造した実績がなさそうなので、おそらく、この翔準丸こそ嘉吉が手掛けた御用船だと思われます。

ただし、翔準丸については、ほとんど情報がなく、はっきりと断定することはできません。否定する要素が見当たらないことによる消去法的な結論です。

なお、翔準丸以外の可能性として考えられる船がもう1つあります。それは、紀州藩の支藩・紀伊新宮藩(紀州藩家老・水野家が統治する藩)が、安政4年に建造した西洋式帆船、丹鶴丸(たんかくまる?)です。(2隻建造されています)

確かに、紀州藩そのものではないので、可能性としては低いと思われますが、紀伊新宮藩の領主と、戸田村を統治する沼津藩の領主が、ともに水野家だったという点が少し気になります。もしかすると、一族同志のつながりで、嘉吉の情報がやり取りされ、嘉吉が紀伊新宮藩に派遣された可能性も考えられるからです。(両水野家の共通の先祖は水野忠政か?水野忠政は徳川家康の母方の祖父に当たります。)

しかし、丹鶴丸は3本マストであり、君沢形ではないことが、はっきりとしています。従って、やはり、丹鶴丸の可能性は低いと思われます。(君沢形は2本マスト)

なお、筆者にとって、翔準丸に関する情報源は、唯一、「海軍誕生と近代日本 幕末期海軍建設の再検討と「海軍革命」の仮説」(関口グローバル研究所 朴栄濬著)というレポートだけです。このレポートでは、翔準丸、大野丸の順に建造されたことが、その記載の順番によって暗示されています。

この建造順(翔準丸→大野丸)は、「世渡上手の人々」の記述順、つまり、紀州藩のくだりの後に越前大野藩のくだりが記されている点とも合致していますので、嘉吉の手掛けた御用船が翔準丸であることの論拠を補充してくれています。(なお、レポートには、丹鶴丸の記載がありません。)

以上、ここまでの考察を踏まえた上で、筆者の考える嘉吉と菊三郎親子のその後は、「ヘダ号建造の2年後である安政4年、紀州藩の翔準丸を建造した」ということになります。

ところで、幕末、紀州藩は翔準丸の他にも複数の大型船を所有していました。しかし、そのいずれもが外国から購入したものです。たとえば、海援隊(隊長・坂本龍馬)の いろは丸と衝突した明光丸は、元治元年(1864)に英国から購入したものです。

結論・嘉吉と菊三郎親子のその後

嘉吉と菊三郎親子のその後をまとめると以下になります。

「嘉吉と菊三郎の親子は、ヘダ号建造の後、紀州藩・翔準丸、越前大野藩・大野丸の建造に関わった。」

 

以上ここまでが、今回の記事となります。

まだまだ、序の口の域を出ませんが、いよいよ次回から菊三郎本人の話に入ります。どうぞ、ご期待ください。

余談・越前大野

最後に、全くの余談を1つ。

越前大野藩は、実は筆者の父方の実家が代々居住してきた土地です。筆者も幼い頃から幾度となく訪れており、大変親しみのあるところです。恥ずかしながら、大野丸についてはこれまで全く知りませんでしたので、今回、記事の中で彼の地と遭遇することになり、大変驚きました。今度、越前大野をお訪れたときには、大野丸について現地で詳しく調べてみたいと思います。

なお、越前大野では昨今、霧の中に浮かぶ「天空の城」として、天守閣を残す越前大野城が観光名所となっています。ぜひ一度、皆さんも訪ねてみてください。近年は、観光に力をいれ、街中が整備されています。

大野市観光振興課 天空の城・越前大野城

ただ、あれもこれも、「世渡上手の人々」の筑前大野藩の記載が、越前大野藩の誤記だったなら、という前提のお話ですが・・・・。(大野藩は越前にしかないので、誤記の可能性はかなり高いです。)

天空の城・越前大野城(大野市商工観光振興課・天空の城 越前大野城HPより)

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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