御殿山今昔物語 第二十回「緒明菊三郎」(3)

御殿山今昔物語 第二十回「緒明菊三郎」(3)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

緒明菊三郎の指導・上京

菊三郎が14歳になった頃(1859年頃)、父の嘉吉が中風(脳卒中による障害)に倒れたため、菊三郎は船大工としての仕事を引き継ぐことになります。菊三郎は、ヘダ号建造以来、常に嘉吉の仕事を手伝っていたため、すでに西洋式造船術を習得していました。

しばらく空いて、おそらく慶応2(1866)頃、菊三郎21歳の頃、当時、幕府の軍艦頭だった榎本武揚に従って、菊三郎は、軍艦・開陽丸に修理工として乗船します。開陽丸には、榎本とともにオランダ留学を経験した上田寅吉(ヘダ号を建造した7人の船匠の1人)も同乗していましたので、その縁もあってのことだと思われます。

左:上田寅吉(NHK「ヘダ号の奇跡 日本とロシア 幕末交流秘話」より)
右:オランダ留学当時の榎本武揚(近代日本人の肖像より)。上田寅吉と榎本武揚のコンビは、折に触れて菊三郎の人生に関わってきます。

しかしその矢先、戊辰戦争(1868-1869)が勃発します。開陽丸を率いる榎本は、幕府軍として箱館まで転戦(箱館戦争)しますが、菊三郎はそれ以前に開陽丸から下船しています。

菊三郎の下船の事情については、文献によってさまざまに説明がされています。大抵の文献は、嘉吉が重い病(中風)に罹ってしまったから、というものです。

ただ、大正8年(1919)出版、蘆川忠雄著「世渡上手の人々」(第十章 造船界の明星 緒方菊三郎氏)には以下のように記されています。

曰く、品川沖で幕府軍艦に乗船していた菊三郎は、官軍に捕らえられることを恐れて、しばらく船中生活を送っていたが、飲料水に苦慮したため、館山(千葉県)まで航行して上陸した。ところが、脚気に罹ってしまい、やむなく官軍に投降。静岡に護送される途中、暴風雨に遭って、期せずして故郷の戸田に上陸することになった、と。

いずれにしろ、菊三郎が榎本武揚や上田寅吉とともに箱館戦争に参戦することはなかったことだけは確かなようです。

それから4年後の明治5年(1872)。父の嘉吉が71歳で没すると、27歳になった菊三郎は東京に上京します。「世渡上手の人々」では、脚気の療養中に戸田で育てた4人の弟子を引き連れて上京し、福澤桃介に船大工として雇われた、と記されています。

次に菊三郎が行動を起こすのは、明治12年(1879)です。それまでの7,8年、菊三郎は福澤桃介の元でずっと働いていたのでしょうか。あるいは、雇い主を転々と変えていたのでしょうか。そのあたりの詳細は不明です。

ただ、この福澤桃介なる人物。Wikipediaによると、福澤諭吉の婿養子で、のちに「電力王」と呼ばれ、一代で大成した実業家、と説明されているのですが、おかしなことに、誕生年が慶応4年(1868)となっています。つまり、菊三郎が上京した当時はまだ4,5歳だったことになるのです。

「世渡上手の人々」に登場する福澤桃介は、Wikipediaのそれとは別人なのでしょうか。あるいは、著者・蘆川の誤記なのでしょうか。

ちなみに、Wikipediaによれば、福澤桃介の実父・岩崎紀一は、明治5年のこの頃、ちょうど農業をしていたか、あるいは川越(埼玉県)で提灯屋を営んでいたことになっているので、福澤桃介の先代が菊三郎を雇っていた、というわけでもないようです。

それよりも、造船業の世界で同時期に歴史に名を残していた人物として、福澤辰蔵なる人物を発見することができました。福澤辰蔵は、のちに平野冨二(ひらの とみじ。当時の石川島平野製造所、現在のIHIの創業者)らとともに東京湾汽船(現在の東海汽船)を興した人です。この人物は、当時、京橋区越前掘2丁目3番地で造船所を営んでいました。

実は、この京橋区越前堀という場所は、菊三郎が明治12年(1879)に初めて興した造船所の近所に当たります。なので、「世渡上手の人々」に登場する福澤桃介は、福澤辰蔵の誤記の可能性があります。

しかも、福澤辰蔵が明治11年(1878)に三重県の鳥羽でも造船所を開業しているのに対し、菊三郎もまた、後年、鳥羽に造船所を建造しようとします。このように、福澤と菊三郎の軌跡が、時として奇妙に一致しているところがあります。

なお、菊三郎が初めて興した造船所、および、鳥羽の造船所については、追々、記事の中でご紹介します。

ちなみに、「品川区史」(1974年刊行)には、菊三郎は明治12年(1879)に上京したと記されています。

高橋の造船所

上京から7年後の明治12年(1879)、菊三郎は独立し、隅田川の支流・亀島川に架かる高橋(たかばし)のほとりに、小さな造船所を興します。菊三郎、34歳の頃のことです。

明治17年(1884)の地図

 

錦絵「霊岸島高橋の景」(井上安治 作、明治15年(1882)頃)。明治15年、高橋は鉄製のトラス橋(格子のある橋)に架け替えられました。

高橋は、1640年代に亀島川の最下流に架けられた橋です。名前の由来は、船の往来の邪魔にならないように橋桁を高くしたから、とされています。現在でも高橋は残っていますが、現在の高橋は、大正8年(1919)の鍛冶橋通りの開通に合わせて、当時の位置から北(上流)に1区画分、60mほど移動しています。

なお余談ながら、大正8年(1919)から昭和4年(1929)頃まで、移動前の橋と移動後の橋が併存していた時期がありました。移動前の橋は、昭和5年(1930)頃、地図上から姿を消しています。更にちなみに、昭和7年(1932)には、高橋のさらに下流に南高橋が架橋されています。

大正8年(1919)の地図。移動前後の高橋が併存していたころの地図。前掲の絵画(トラス橋)は、移動前の橋。大正8年(1919)に、鍛冶橋通りに繋がる高橋(移動後の高橋)が架橋されました。

話を造船所に戻します。

段落の冒頭で書いた通り、造船所の所在地は「高橋のほとり」です。ですが、もう少し具体的に場所が特定できないか、少し検証してみたいと思います。

 

参考にしている文献の1つ「品川区史」(1974年出版)では、造船所の所在地を「京橋区湊町」としています。また、「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)では、「高橋のほとりの湊町」としています。いずれも共通するのは「湊町」という町名です。

調べてみると、京橋区(現在の中央区)には、かつて「湊町」という行政区が実際に存在しました。現在の中央区湊のことです(昭和46年(1971)、湊町からに町名変更)。よって、造船所は、亀島川の最下流の右岸または、その周辺に存在した、ということになります。(Googleマップ参照)

ですが、湊町という町名は、昭和7年(1932)に初めてできた町名で、造船所ができた明治12年(1889)には存在しませんでした。従って、「品川区史」や「幕末の日本」に記載されている「湊町」を、現在の「中央区湊」と想定するのは、早計な気がします。

そこで、明治12年当時の高橋周辺を調べてみると、湊町に似た町名として、東湊町、本湊町、新湊町の3つの町名が存在することが分かりました。「品川区史」や「幕末の日本」に記されている「湊町」とは、おそらくこの3つの町のいずれかのことだと思われます。

大正15年(1925)の地図。東湊町は昭和6年(1931)、霊巌島(町名)または越前堀(町名)に編入されました。本湊町と新湊町は昭和7年(1932)、湊町に編入されました。つまり、湊町(現在の中央区湊)は、本湊町と新湊町を合わせたエリアです。

結論を先に述べると、筆者は東湊町だと思っています。理由は、内陸の新湊町は論外として、本湊町は「高橋のほとり」と言うよりは、むしろ「稲荷橋のほとり」と言うべき位置にあるからです。

また、造船所の所在地を、霊岸(巌)島(れいがんじま)とするサイトや他の文献を目にしたことがあります。その点、東湊町は、他の2つと違って、唯一、霊岸(巌)島の中に位置しています。

なお、亀島川に沿った東湊町の沿岸を「将監河岸」(しょうげんがし)と呼びます。由来は、江戸時代、霊岸(巌)島の南西角地に、御船手組頭(おふなてぐみかしら)の向井将監(むかいしょうげん)の屋敷があったからです。御船手組とは、今でいう海上保安庁のようなもので、向井家が代々その組頭を務めていました。将監は官職名です。

ということで、筆者は、造船所の所在地を、「高橋からさして離れていない、将監河岸のどこか」と考えています。

明治17年(1884)の地図

ただし、上記の考察は、「品川区史」や「幕末の日本」に記されている「湊町」が、具体的な町名を表していることを前提としています。ですが、この「湊町」を「港のある町」と解釈することもできます。そうなると所在地の候補エリアはさらに広くなります。

というのは、そもそも高橋を下った本湊町沖(湊河岸の沖合)は、江戸中期以降、「江戸湊」と呼ばれる、江戸の海の玄関口だったからです。となれば、「湊町」という文言を「高橋を中心とした亀島川の沿岸全体」、「江戸湊の周辺の町」というように、広いエリアとして捉えることもできますので、たとえば、日比谷河岸も、所在地の候補に含まれることになります。(日比谷河岸のなかで、高橋のほとりと呼べるエリア内に造船所があったと考えることもできます。)

とはいえ、筆者は、やはり、亀島川沿いの東湊町、つまり将監河岸のどこかに菊三郎の造船所があったと考えます。

安政4年(1857)の地図。黄のエリアが、当時、江戸湊と呼ばれた江戸の海の玄関口。白丸は、湊稲荷社。神社の別名、鉄砲洲稲荷社の「鉄砲洲」とは、本湊町を北端に、南に向かって船松町、十軒町、明石町まで続く、江戸湾沿岸一帯を示す地名です。地名の由来は、全体の形(地図の中でグレーのエリア)が鉄砲の形に似ているからという説と、寛永年間にこの地で大筒の実験が行われたからとする説があります。

上の地図(安政4年の地図)の中で白丸がついている場所に、当時、湊稲荷社(鉄砲洲稲荷社)という神社がありました。江戸湊を行き交う船にとって、目印となっていた建物です。(明治2年(1869)に現在の地に遷座)

下掲の絵は、「江戸名所図会」の中の「湊稲荷社」の挿絵です。八丁堀の上空から、湊稲荷社、永代橋、越中島方面を伺う構図になっています。ご覧のとおり、江戸湊にはたくさんの船が描かれており、当時の賑わいを感じることができます。

なお、現在、向井将監の屋敷跡に、「江戸湾開港の地」という碑が建立されています。

江戸名所図会「湊稲荷社」。八丁堀から永代橋、越中島方面を眺める構図になっています。

「江戸名所図会」と同じ構図で見た現在の風景。稲荷橋のたもとにあった湊稲荷社(鉄砲洲稲荷社)は、明治2年(1869)に現在の地に遷座しました。昭和35年(1960)から61年(1986)にかけて、八丁堀(明治以降は桜川)が徐々に埋め立てられたため、稲荷橋は、昭和50年代後半に消滅しました。なお、永代橋は明治30年(1897)、南(下流)に移動して再架橋されています。(Google Earthより)

追記・川口町の可能性

前段で長々と造船所の所在地について書き進めてきましたが、それを根本から覆してしまうようなことを追記しておきます。

実は、東京都が1991年に出版した「近代東京の渡船と一銭蒸汽」という文献に、明治18年(1885)12月当時、東京府農商課がまとめた府下の船(小蒸気船)の一覧表が示されています。その一覧表の中で、菊三郎が所有する第五緒明丸という船の定繋地が「京橋区霊岸島川口町」と記されています。

船の定繋地と造船所の所在地は必ずしも一致しない可能性はありますが、一致しているこをを否定することもできないので、このことを検証してみます。

左:大正14年(1925)の地図
右:明治17年(1884)の地図。川口町は、青いエリアの富島町二丁目と、赤いエリアの霊岸島川口町が合併してできた町です。

霊岸島川口町は、確かに実在した町名で、東湊町のさらに北に位置し、将監河岸の一部を担ってた行政区です。ただし、明治5年(1872)に、さらに北、つまり、霊岸(巌)島の北辺の亀島川沿いにあった富島町二丁目と合併して、川口町という町名に変更されています。(上掲の明治17年の地図で赤いエリアが霊岸島川口町、青いエリアが富島町二丁目)

従って、明治18年(1885)に作成された東京府の一覧表の中では、本来、川口町と記載されるべきものです。

とはいえ、一覧表には、あくまで霊岸島川口町(赤エリア)と書かれている以上、富島町二丁目(青エリア)は無視してよいと考えられます。

その上で、船の定繋地と造船所の所在地が同一の場所にあったと仮定すると、造船所は、将監河岸の中でも、かなり北の方に位置していたということになります。

しかし、地図のとおり、川口町はもはや「高橋のほとり」ではありません。むしろ、「亀島橋のほとり」と表現すべき場所になります。

従って、船の定繋地と造船所は別な場所にあったと考えるべきではないでしょうか。

以上で、造船所の所在地についての考察は終りです。

さて、この高橋ほとりの将監河岸の中にあった造船所。実は、時期は不明ながら、結局、火災にあってしまいます。菊三郎は、そのため、この造船所を移転することになります。

 

今回の記事はここまでです。

菊三郎の生涯を牛歩でご紹介している感じですが、続きは次回となります。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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