御殿山今昔物語 第二十一回「緒明菊三郎」(4)

御殿山今昔物語 第二十一回「緒明菊三郎」(4)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

石川島の造船所

参考としている多くの文献では、高橋の造船所が火災にあった後、菊三郎は、芝離宮の隣(芝浦、芝区新浜町)に造船所を移転した、としています。しかし、大正8年(1919)出版、蘆川忠雄著「世渡上手の人々」(第十章 造船界の明星緒明菊三郎氏)だけは、石川島(隅田川の河口にある島)の空き地に造船所を建造した、と記しています。

曰く、懲役囚70人を使用する条件で石川島の空き地を借用し、造船所を起こしたが、囚人の管理がうまくいかず、結局閉鎖した、と。

当時、隅田川の河口に浮かぶ石川島には、島の北側に石川島造船所(現在のIHI)、南側に石川島監獄署が存在しました。懲役囚とは、その監獄署の囚人のことだと思われます。

なお、「世渡上手の人々」には、いつ石川島に造船所を建造したのか、いつ撤退したのか、などの具体的な記載はありません。

以下では、石川島、石川島造船所、石川島監獄署について補足します。

石川島

石川島はもともと隅田川河口の三角州で、かつては、鎧島(よろいじま)、森島、あるいは三国島(みこくじま)などと呼ばれていました。1629年に船手頭(ふなてがしら)の石川八左衛門政次(石川大隅守)が屋敷を構えて以降、石川島(俗に、八左衛門島)と呼ばれるようになりました。現在は、島の北端部(石川島造船所跡地)に高層マンションが林立しています。

明治17年(1884)の地図

石川島造船所

石川島造船所は、もともと水戸藩・徳川斉昭(なりあき)によって嘉永6年(1853)に創設された幕府の造船所です。ヘダ号を建造した7人の船匠のうち、嘉吉(菊三郎の父)を除いた6人が、ヘダ号建造後にこの造船所に入所しています。

明治維新後、造船所は官営となりますが、明治9年(1876)に廃止されます。同年、平野富二(ひらの とみじ)がその跡地を借用し、造船所を立ち上げ直します。当時の名称は、石川島平野造船所でした。この石川島造船所が、石川島播磨重工を経て、現在のIHIへと発展していきます。

ちなみに、平野富二の生誕年は1846年。菊三郎は1845年です。菊三郎にとって平野冨二は、生涯のライバルだったのではないか、と筆者は見ています。

「東京石川島造船所製品図集」(東京石川島製造所、明治36年(1903)出版)に掲載の「東京石川嶋造船所工場全景」

左:明治17年(1884)の地図
右:現在の石川島(Google Earthより)

石川島監獄署

石川島監獄署の起源は、寛政2年(1790)、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」でお馴染みの火付盗賊改役・長谷川平蔵の建議によって創設された「人足寄場」(にんそくよせば)です。

人足寄場(正しくは、加役方(かやくかた)人足寄場)は、無宿者や引取手のない刑余者の更生施設のことで、今でいうところの職業訓練所のようなものです。この人足寄場が、明治維新以降は監獄署として使用されていました。(明治27年(1895)、巣鴨に移転。)

ちなみに、第十五回「西村勝三」(前編)でご紹介したとおり、明治の工業の父・西村勝三も人足寄場に収容されていたことがあります。

左上:嘉永3年(1850)の石川島周辺の地図。人足寄場のあった島(石川島と佃島の間の島)はもともと鉄砲洲向島(てっぽうずむこうじま)と呼ばれていました。
右上:明治10年(1877)の地図。赤字で「懲役所」と記されています。「川」の字が記載されているエリアは空き地でしょうか。空き地ならば、菊三郎の造船所はここにあったのかもしれません。
下:明治17年(1884)の地図。

人足寄場の詳細図(年代不明)。さまざまな職業が記されています。それぞれが訓練所だったのでしょうか。

金杉新浜町の造船所

石川島の造船所を閉鎖した後、菊三郎は芝離宮の隣に造船所を移転します。移転の時期は不明ですが、おそらくは明治14年(1881)から15年(1882)頃だと思われます。

ただ、移転先の詳細な所在地は不明です。

「世渡上手の人々」では芝浦と記されてているだけですし、「品川区史」(品川区、1974年出版)に至っては、この地への移転の記述がありません。ただ、金子治司著「幕末の日本」(早川書房、1968年出版)には「芝区新浜町(いまの芝浦一丁目)に造船所を移した。いまの芝離宮の横手」と記されています。

更に東京都が1991年に出版した「近代東京の渡船と一銭蒸汽」(以下、「近代東京の渡船」と記します。)には、菊三郎の船の新設に関連する行政文書が紹介されていて、その文書の中で、菊三郎の寄留地(居住地)が「当区芝金杉新浜町壱番地」(当区とは芝区のこと)となっているのを見ることができます。もちろん、寄留地(居住地)と造船所の場所が同一でない可能性もあります。

調べてみると、当時、芝区金杉新浜町(かなすぎしんはまちょう)という行政区が確かに存在したことが分かりました。現在の港区芝浦一丁目です。ということは、現在、東芝本社ビルが建っている辺りに造船所があったことになります。

左:大正14年(1925)の地図。金杉新浜町という町名は、明治5年(1872)から昭和11年(1936)まで存在しました。
右:明治17年(1884)の地図

Wikipediaによれば、東芝の前身・田中製造所(明治26年(1893)、芝浦製作所に改名)は、明治14年(1881)以降に、銀座から今の地(東芝本社ビルの地)に移転したことになっています。菊三郎がこの地に造船所を移転した時期を明治14、15年頃と仮定すると、菊三郎の造船所と田中製造所は隣り合って、軒を連ねていた可能性も出てきます。というより、隣り合っていた蓋然性が非常に高いです。

なぜなら、「近代東京の渡船」に記されていた菊三郎の寄留地「金杉新浜町壱番地」は、実は、田中製造所(芝浦製作所)の住所と全く同じだからです。おそらく「壱番地」が示すエリアがそこそこ広かったため、両者の住所が同一になってしまったのではないでしょうか。

ちなみに、現在の東芝本社ビルの住所は、芝浦1丁目1-1です。

左:明治29年(1896)の芝浦製作所の広告(「日本紳士録」第3版に掲載)
右:明治33年(1900)の広告(「日本紳士録」第6版に掲載)

前掲の大正14年、明治17年のどちらの地図にも、古川から南西方向に斜めに伸びる入江のようなもの描かれています。田中製造所(芝浦製作所)の物品を搬入出するための水路だったのかもしれませんが、もしかすると、造船所のドック(船渠)だったのかもしれません。

なお、金杉新浜町は、江戸時代、そのほとんどがまだ海の中でしたが、一部分だけ大名の下屋敷に含まれていたところがあります。その大名屋敷の主は、江戸時代の大半の期間、鳥取藩池田家でした。

この鳥取藩池田家、実は、ディアナ号事件が発生したのと同じ1854年に、御殿山にあった松江藩松平家の下屋敷(通称「大崎園」)を、屋敷替えによって、引き継いでいます。

つまり、金杉新浜町に屋敷を構えていた池田家が、後年、御殿山に屋敷を構えることになったように、金杉新浜町に造船所を構えていた菊三郎もまた、後年、御殿山に邸を構えることになった、ということです。

なお、大崎園については、第十七回『西村勝三』(後編)をご参照ください。

芝離宮方面から臨んだ芝浦一丁目。上が南。(Google Earthより)。芝離宮の南には東京ガス本社ビル、さらにその南(芝浦一丁目の北端)には東芝本社ビルが建っています。

明治16年(1883)、菊三郎は再び造船所を移転します。今度の移転先は、品川沖の第四台場跡地です。なお、この移転によって金杉新浜町の造船所が閉鎖されたのか、されていないのかは不明です。

ただ、「近代東京の渡船」には、第四台場に移転した後の明治18年(1885)当時、菊三郎が所有していた第二、第三、第四緒明丸の定繋地が、芝区金杉新浜町となっている資料が掲載されています。とすると、第四台場移転後も、しばらくの間、金杉新浜町に造船所が存在していたのかもしれません。

 

以上、ちょっと短めですが、今回の記事は終了です。

次回は、第四台場に移転した造船所についてご紹介します。この第四台場の造船所こそ、菊三郎を飛躍させた造船所となります。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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