御殿山今昔物語 第二十二回「緒明菊三郎」(5)

御殿山今昔物語 第二十二回「緒明菊三郎」(5)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

一銭蒸汽(蒸気)

明治から昭和初期にかけて、隅田川の風物詩として「一銭蒸汽」と言われるものがありました。一銭蒸汽とは、およそ1区間1銭の運賃で、隅田川を定期運行する乗合蒸気船のことです。いまでも隅田川には、定期運航船(水上バス)が往来していますが、いわばその先祖にあたるものです。一銭蒸汽は、明治から昭和初期にかけて、人々の生活の足として、大変な盛況を誇っていました。ちなみに一銭は、現在の100~200円程度です。

「東京浅草吾妻橋真図」(歌川国政作 明治20年(1887)。川に浮かぶ煙突のついた船(船尾に日の丸を掲げた船)が、一銭蒸汽でしょうか。

隅田川の水上バス「リバータウン」(東京都観光汽船「TOKYO CRUISE」より)

実は、菊三郎こそ、この一銭蒸汽の生みの親だったのではないか、とする説が存在します。というのは、高橋の造船所時代、菊三郎は、永代橋から両国橋を定期運航する乗合蒸気船の事業を興していたからです。この事業は大きな利益を菊三郎にもたらしました。しかしその後ライバルが続出し、さらに、高橋の造船所が火災にあってしまったので、この事業から撤退したとされています。

明治17年(1884)の地図

では、本当に、菊三郎は一銭蒸汽の生みの親だったのでしょうか。

以下では、その説を検証してみたいと思います。

検証・一銭蒸汽(蒸気)の起源

一銭蒸汽の起源については、1991年に東京都が出版した「近代東京の渡船と一銭蒸汽」(以下、「近代東京の渡船」と記します。)という文献に詳細が記されています。そこには、そもそも一銭蒸汽の起源は曖昧であるとした上で、主な説として3つの起源が紹介されています。

1つ目は菊三郎説。2つ目は平野富二説。3つ目は古川孝七説です。

菊三郎説

1つ目の菊三郎説は、前述の永代橋・両国橋間の定期運航船をその起源とするものです。説の根拠として、菊三郎の死去の際、明治42年(1909)1月9日に万朝報(新聞の名称)が掲げた追悼文を挙げています。追悼文に曰く、

「・・・東京に出で独力造船工場を起し、更に永代、両国橋間の通ひ蒸気船を始めたるが、今の一銭蒸汽の元祖なり。」

平野富治二説

2つ目の平野冨二説は、明治18年(1885)、隅田川の洪水によって吾妻橋(あづまばし)が流失した際、浅草と本所を結ぶ渡り船として、石川島造船所が蒸気船(第四通快丸)を出したことを起源とするものです。平野冨二は、石川島平野造船所(現在のIHI)を興した人で、菊三郎の生涯のライバルといえる人物です。この説の根拠として、「近代東京の渡船」では、昭和8年(1933)に刊行された「本木昌造・平野冨二詳伝」を挙げています。平野冨二詳伝に曰く、

「明治十八年七月二日隅田川大洪水の為吾妻橋流失す。浅草、本所間の交通途絶し、市民の難渋一方ならず。・・・石川島平野製造所々有の小蒸汽船第四通快丸を以て、其渡船に充て、・・・一人一回金壱銭(五厘の説あり)の渡船賃を徴して渡船を継続せり、是れ蓋し後年隅田川壱銭蒸汽の起源なり。」

(途中の省略は筆者による)

ちなみに、引用文では曖昧だった船賃について「近代東京の渡船」では、最初の3日間は無料で、4日目以降は5厘だったと紹介しています。またこれはあくまでも慈善事業の一環だったため、開始後10日間程度で終了したことを伝えています。

古川孝七説

3つ目の古川孝七説は、当人が興した「開船社」によって、明治18年(1885)、永代橋・両国橋・吾妻橋間の乗合蒸気船による定期運航が開始されたことを起源とするものです。その説の根拠として、「近代東京の渡船」では、明治40年(1907)に出版された「京浜実業家名鑑」を挙げています。名鑑に曰く、

「蓋し君は隅田川に火船を上下せしものの嚆矢たり。故に人君を綽名して「一銭蒸汽」と云ふ。」

君とは古川孝七のこと、また嚆矢とは「こうし」と読み、「物事のはじまり」という意味です。

さらに、「近代東京の渡船」は、明治18年(1885)に東京絵入新聞に掲載された開船社の広告を紹介しています。広告には、永代橋・両国橋・吾妻橋の各区間の運賃がそれぞれ1銭だったことが明記されています。

なお、古川孝七は、明治31年(1898)に隅田川汽船会社を興します(開船社との関係は不明)。隅田川汽船は、現在、隅田川の水上バスを運営している東京都観光汽船の前身です。

 

以上が3つの説のご紹介です。

実はこの3つの説以外にも、立川春重著「隅田川の渡し舟」(昭和17年出版?)という文献に、「明治21年(1888)の大洪水で吾妻橋が危険になった際、浅草猿若町市村座の芝居茶屋・茗荷屋が、伝馬船に客を乗せ、蒸気船で曳いて、渡船料一銭で渡したことを起源としている」と記載されていることを、「近代東京の渡船」は紹介しています。

段落の冒頭で述べたとおり、そもそも一銭蒸汽の起源については、専門家の間でも特定が難しい問題です。というのは、明治10年代初頭から、あるいはそれよりもかなり前から、隅田川をはじめとする東京および東京近郊の川では、「川蒸汽船」と呼ばれる蒸気船が、日常的に往来し、人や物を運搬していたからです。

例えば、利根川丸会社(利根川汽船会社とする文献あり)が、既に明治4年(1871)の段階で、新川、江戸川、利根川を経て、奥州街道の中田(現在の茨城県古河市)まで、川蒸気船を運行していたこと、あるいは、内国通運会社が、明治10年(1877)、深川扇橋から栃木県生井村までの航路を開業していたこと、などが「近代東京の渡船」に紹介されています。ちなみに、内国通運会社は、現在の日本通運です。

とはいえ、ここでの話題はあくまでも一銭蒸汽の起源です。

「近代東京の渡船」の記載を見る限り、平野冨二にしろ、古川孝七にしろ、その始まりはいずれも明治18年(1885)となっています。一方、菊三郎の乗合蒸気船の始まりは、「世渡上手の人々」(蘆川忠雄著、大正8年(1919)出版)、「品川区史」(品川区、1974年出版)、「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)のいずれの文献も、高橋の造船所時代としています。高橋の造船所時代とは、造船所を開業した明治12年(1879)から、(少なくとも時期がはっきりしている)第四台場に造船所を移転した明治16年(1883)までの間と考えられますので、このことだけからすれば、菊三郎説が最も有力といえます。

なお、菊三郎がその後この事業をどうしたのか、撤退したのか、継続したのかについては、はっきりとしません。

というのは、確かに「世渡上手の人々」には、「ライバルが続出して競争が激しくなり、この商売に失敗してしまった、更に、高橋の造船所が火災にあってしまい窮地に陥った」といったことが記されているのですが、その他の文献には、この事業の末路についての明確な記載がないからです。例えば、「幕末の日本」では、ライバルの続出と火災について触れられているだけです。

とはいえ、いずれも文献も、この事業の状況について、否定的なニュアンスが伝わってきますので、おそらくは撤退したものと思われます。

なお撤退の時期について、「世渡上手の人々」は、(一銭蒸汽が失敗し、造船所が火災にあって)窮地に陥った後、直ちに再挙して石川島に造船所を移転したと記していますので、明治14、15年(1881、1882)頃と推測することができます。

ただ、「近代東京の渡船」には、明治19年(1886)に、古川孝七と菊三郎が連名で、東京通船会社という会社の設立願書を提出していたことが紹介されています。明治19年は、第四台場に造船所を移転した3年後です。

「近代東京の渡船」を通読すると、明治18年(1885)を境にして一銭蒸汽の盛況が始まったように読み取れます。とすると、撤退の時期は、明治19、20年(1886、1887)頃だったのではないでしょうか。

なお、上記の設立願書にあった東京通船会社ですが、実際に設立されたかどうかは不明であり、明治20年(1887)には解社届が提出されていていた、と「近代東京の渡船」は伝えています。

第四台場の造船所・緒明造船所

高橋、石川島、金杉新浜町(芝浦)と造船所を移転してきた菊三郎は、明治16年(1883)、38歳の頃、品川沖の第四台場跡地を陸軍省から借り受け、本格的な大型造船所「緒明造船所」を建造します。第四台場の借り受けには、榎本武揚の力添えがあったといわれています。(菊三郎は幕末、榎本が率いる幕府の軍艦・開陽丸に修理工として乗船していました。)

菊三郎の造船業界における飛躍はこの第四台場の緒明造船所から始まります。

なお、品川沖の台場そのものの歴史については、第七回「原美術館と原邸(4)」をご参照ください。

大正14年(1925)の地図。左下の赤丸が緒明邸。大正14年当時、緒明造船所はすでに稼働していなったようです。

大正時代の第四台場の写真(「お台場 品川台場の設計・構造・機能」(淺川道夫著、錦正社、2009年出版)より)

菊三郎が第四台場に造船所を移転した時期は、まさに殖産興業の全盛期でした。明治政府は、民間造船業者の育成を後押しすべく、数々の施策をとっていた時期です。

例えば、明治9年(1876)には、官営の石川島造船所が平野冨二(IHIの創業者)へ貸し出されています。また、明治17年(1884)には官営・長崎造船所が岩崎弥太郎(三菱財閥総帥)へ貸し出されています。さらに、明治19年(1886)には、官営・兵庫造船所が川崎正蔵(川崎重工の創業者)に払い下げられています。また、明治29年には、航海奨励法、造船奨励法が制定されています。

このような時代背景の中、第四台場の緒明造船所では、菊三郎が没する明治42年(1909)までの間に、40隻近い船が製造されたといわれています。

社団法人日本造船工業会発行の「Shipbuilding News vol.04」には、明治30年(1897)から明治44年(1911)までの15年間に、国内の造船所で建造された総トン数1000t以上の船が73隻だったと記されています(※)。年間およそ5隻の割合です。

どれだけの数の造船所が当時の日本に存在したのかは不明ですが、少なくとも「数えるほどしかなかった」という訳ではないはずです。むしろその逆だと思われます。そんな中、緒明造船所では、総トン数1000t以上の木造商船を、明治34年(1901)に2隻、36年(1903)に1隻、38年(1905)に1隻、それぞれ建造しています。

具体的には順に、第22観音丸(1207t)、第25観音丸(1526t)、第26観音丸(1635t)、第27観音丸(1897t)です。(菊三郎は観音様を信仰していました。)

石川島造船所、長崎造船所、兵庫造船所など、もともと幕府が建造し(兵庫造船所は除く)、明治政府から引き継いだ半官営的な造船所がひしめく中、全くの民間造船所としてスタートした緒明造船所のこの実績は、当時としても目を見張るもがあったのではないでしょうか。

※総トン数とは船の容積・体積を表す単位で、重さとは関係ありません。筆者の計算では、総トン数1000tは、およそ5000㎥(立方メートル)。これは25mプール、約9杯分に相当します。

海運業にも進出

また、明治23年(1890)、菊三郎は日本郵船から帆船や汽船を買い入れて、海運業も始めます。このあたりの事情を「世渡上手の人々」では、菊三郎の台詞をかりて「自分の作る船舶は何れも他人のもの許(ばか)りである、之にては餘り面白くもあらず、それよりも自己の所有船を以て回槽業を経営して・・・」と、説明しています。菊三郎の故郷・戸田が、もともと廻船業で栄えた街であったことも影響しているのかもしれます。

菊三郎は、この海運業でも成功を収めます。特に、日清、日露の戦役がこの事業の発展に大きく影響を及ぼしました。「幕末の日本」によると、明治38年(1905)には、海運業で、汽船17隻、帆船数十隻を所有しており、個人が経営する事業としては、その船の多さで有名だったようです。

後年のデータになりますが、大正2年(1913)当時の所有船・総トン数ランキングの中で、菊三郎から家督を継いだ緒明圭造が、日本郵船などの名だたる会社と肩を並べて、26位にランキングされています。

「日本汽船件名録」(海運週報編輯部、大正2年(1913)出版)の巻末にある「汽船総噸数五千噸以上所有者調」。緒明圭造は、9071tで堂々26位にランキングされています。(国立国会図書館デジタルコレクションより)

さらに、菊三郎は、造船、海運業の傍ら、造船に必要な木材を賄うため、全国の植林活動にも力を注ぎます。藤沢、荏原郡(現在の品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市の一部)、伊豆、鳥羽の各地に松、杉、檜を計30万本植林したと、「世渡上手の人々」は伝えています。

 

以上で、今回の記事は終了です。

次回は、御殿山に構えた菊三郎の邸宅についてご紹介します。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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