御殿山今昔物語 第二十四回「緒明菊三郎」(7)

御殿山今昔物語 第二十四回「緒明菊三郎」(7)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

3代目・緒明圭造

嘉吉(菊三郎の父)から数えて3代目となる緒明圭造(慶応3年(1867)6月生)は、菊三郎の長女・なかの婿です。圭造は、伊豆湯ヶ浜の足立家の出身で、工部大学(東京大学工学部の前身)に通っていたころ、知人の縁を頼って緒明造船所に顔を出しているうちに、長女・なかと結婚することになりました。

圭造は、菊三郎の片腕として主に海運業を手伝い、菊三郎が没した明治42年(1909)1月、41歳で家督を継いでいます。

家督を継いだ翌年の明治43年(1910)には、海運業経営のため、緒明合資会社を設立しました。

緒明家の家系図(筆者作)

家督を継いだ圭造は、その後、実業家としての名声を高めていきます。

大正7年(1918)には、渋沢栄一が発起人として設立した、田園都市株式会社に役員として参加します。この会社は、東京の城南地域(港区、品川区、目黒区、大田区)に、都市生活者向けの閑静な住宅団地を開発することを目的としたものです。有名な高級住宅地・田園調布は、大正12年(1923)に、この会社によって開発されました。

左:渋沢栄一(Wikipediaより)
右:昭和7年(1932)当時の田園調布(東急電鉄HPより)

また、大正11年(1922)には、この会社の鉄道部門を分離した、目黒蒲田電鉄の取締役にも就任します。さらに、大正13年(1924)には、五島慶太(ごとうけいた、東急グループの創始者)率いる東京横浜電鉄の取締役にも就任します。

圭造は昭和13年(1938)に70歳で没しますが、その翌年、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄は合併し、名称を東京横浜電鉄とします。

昭和12年(1937)当時の鉄道路線。東横線は、昭和2年(1927)に渋谷~神奈川間が開業。目蒲線は、大正12年(1923)に開業。池上線はもともと池上電気鉄道でしたが昭和9年(1934)に目黒蒲田電鉄に買収。大井町線は、昭和2年(1927)に大井町~大岡山間で開業。

ちなみに、東京横浜電鉄は、昭和17年(1942)、京浜電気鉄道(京急)、小田急電鉄(小田急)と合併し、東京急行電鉄、つまり、現在の東急電鉄へと発展していきます。

さらに、昭和19年(1944)には、京王電気軌道も合併し、いわゆる「大東急」が完成します。当時、圭造から家督を継いでいた息子の緒明太郎は、大東急の取締役を担っていました。

なお、戦後の昭和23年(1948)に、京急、小田急、京王はぞれぞれ東急から分離し、現在に至つています。

左:現在の東急電鉄路線図(Wikipediaより)。昭和19年(1944)、東急は、京急、小田急、京王を合併し「大東急」を完成させます。
右:敵対する企業を次々に買収し、大東急を作り上げた五島慶太。その強引な手法から“強盗”慶太の異名を誇りました。(写真:近代日本人の肖像より)

南洋航路

圭造は更に、大正元年(1912)、大阪の原田汽船会社・原田十次郎、北海道の板谷商船株式会社・板谷宮吉とともに、日本と南洋諸島(現在のミクロネシア連邦)を定期船で結ぶ南洋航路を開設するため、南洋郵船組を立ち上げています。

南洋航路は、命令航路(政府から補助金が支出される代わりに、細かく運営条件が指定される航路)として、政府から強く開設が要望されていた航路でしたが、日本郵船、大阪商船などの大手は、補助金の安さを理由に難色を示していました。圭造は、国家的見地に立ち、採算を度外視して、この航路を開設しました。

大正3年(1914)、南洋郵船組は一旦解散し、改めて、南洋郵船株式会社として立ち上げられ、圭造は初代社長に就任しています。

なお、南洋諸島は、第1次世界大戦後、日本の支配下となり、また、大正9年(1920)から昭和20年(1945)までは、日本の委任統治領となっていました。

さらに、圭造は、鉱山業にも参画していたようですが、それについては詳細を調べきることができませんでした。

4代目・緒明太郎

圭造が没した昭和13年(1938)4月に家督を継いだのが、圭造の次男・太郎(明治30年(1897)6月生)です。4代目・緒明太郎は、圭造の没後、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄の取締役を引き継ぎ、また、東京急行電鉄発足時および大東急時代の取締役も担っています。

また、太郎の妻は、西郷隆盛の孫・敦子です。敦子の実弟は、戦後、第二次佐藤栄作内閣で法務大臣を務めた西郷吉之助です(吉之助の父は、西郷隆盛の嫡男・寅太郎)。

ちなみに、JR田町駅前の第一京浜沿いに、昭和29年(1954)に建てられた「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」の碑の揮毫は、吉之助によるものです。

左から、緒明太郎(「東京横浜電鉄沿革史」より)、西郷隆盛、西郷吉之助(いずれもWikipediaより)

菊三郎の長男・緒明豊三郎

実は菊三郎には39歳のときにできた豊三郎(明治17年(1884)11月生)という末っ子の長男がいました。しかし、豊三郎は家業にはつかず分家しています。

菊三郎の没時、豊三郎は24歳。圭造は41歳でした。圭造は婿養子とはいえ、菊三郎の片腕として数々の実績を残していましたので、そこのことが豊三郎の家督相続を消極的なものにしたのかもしれません。

豊三郎は、慶応大学理財科を卒業したのち、シカゴのハミルトン大学に留学。帰国後に、英字経済新聞を発行するなどしています。

見た目は歌舞伎の名優のようであり(市村羽左衛門に似ていると周囲から言われていた)、性格は得度した人のように極めて穏やかだった、と飯尾憲士著「静かな自裁」(文藝春秋、1990年出版)には記されています。

第四台場のその後

話を菊三郎に戻します。

明治16年(1883)、第四台場に建造された緒明造船所は、明治42年(1909)の菊三郎の死没を契機に、稼働をやめてしまったようです。結局、第四台場の緒明造船所では、40隻近い船が建造されました。

第四台場は、前述のとおり陸軍省からの借地でしたが、大正元年(1926)、圭造に払い下げられます。払い下げに際しては、東京府と入札で競ったようですが、辛くも坪15円で落札したとされています。ただ、せっかく購入した第四台場は、その後、特に何の用にも供されなったようです。

大正14年(1925)、周辺の埋め立て計画が持ち上がります。ただ、実際の埋め立ては、昭和10年(1935)に始まり、昭和14年(1939)に完成します。埋め立てられた地域は、現在の天王洲アイルです。なお、造船所の設備も昭和14年に撤去されています。

昭和13年(1938)に圭造が没すると、第四台場の所有権は、昭和15年(1940)に太郎に相続されます。

太平洋戦争中、第四台場の跡地は、陸軍によって借り上げられ、陸軍はここを資材置場として使用します。戦後、東京油槽倉庫に貸与され、多くの石油タンクが建てられます。また、首都高速1号線(1963年、芝浦~鈴ヶ森間開通)の一部が敷地を通過するため、その部分が売り払れます。

現在、第四台場跡地周辺はシーフォートスクウェアと呼ばれる商業エリアとして発展しています。

特に、第四台場そのものの跡地には、平成4年(1992)、第一ホテル東京シーフォートが開業し、現在に至っています。

第一ホテルは、もともと昭和13年(1938)に阪急グループの創始者・小林一三(いちぞう)が、新橋で開業したホテルです。小林一三は、東急グループの創始者で、先述の「大東急」を作り上げた五島慶太を発掘した人物です。(俗に「西の小林、東の五島」と呼ばれるコンビ)

なお、シーフォートとは、海の砦という意味です。第四台場に由来するものだと思われます。

昭和22年(1947)。第四台場跡地には倉庫が写っています。陸軍が使用した倉庫跡でしょうか。(goo地図より)

昭和38年(1963)(国土地理院HPより)。第四台場跡地には、東京油槽倉庫の石油タンクが写っています。この年、首都高速1号線(芝浦~鈴ヶ森)が開通しました。第一台場はかろうじて台場の輪郭を残すのみの状態です。その後、完全に周囲に埋没します。

昭和50年(1975)以降の第四台場跡。

昭和11年(1936)の航空写真はこちらから見ることができます。(国土地理院HPより)

シーフォートスクウェア(Google Earthより)

第一台場のその後

実は、第四台場だけではなく、その隣にある第一台場もまた、大正6年(1917)、圭造によって内務省から落札、購入されています。

しかし、圭造は、第一台場もまた、第四台場同様に何かに使ったわけではなかったようです。

「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)には、第一台場の管理人が、自生するカヤを集めて陸軍省に馬料として売っていた、というエピソードが紹介されています。

第一台場も、圭造の死後、太郎に相続されますが、太平洋戦争中の昭和19年(1944)、海軍に強制的に買い上げられています。

ちなみに、第一台場には、戦後の昭和22年(1947)から24年(1949)の間、戦災孤児収容施設「東水園」が設置されていました。(東水園は、昭和22年以前、第五台場に設置されていました。)

 

以上で、今回の記事は終了です。次回、いよいよ最終回となります。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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