御殿山今昔物語 第二十五回「緒明菊三郎」(8)

御殿山今昔物語 第二十五回「緒明菊三郎」(8)

日本サード・パーティの本社がある御殿山は、昔からの高級住宅街です。この街には、明治以降、地図にその名が記載されるほどの著名人が数多くお邸を構えてきました。

これまで数回にわたり、『御殿山の主たち』と題して、御殿山およびその周辺に居を構えていた、数々の偉人たちを順にご紹介してきました。
6人目の今回は、明治期に造船業、海運業で名を馳せた造船界の明星・緒明菊三郎(おあき きくざぶろう)です。

浦賀船渠(浦賀ドック)と浦賀分工場(石川島造船所)

明治29年(1900)、菊三郎は、緒明造船所の経営のかたわら、浦賀船渠株式会社(うらがせんきょ)(通称、浦賀ドック)の設立に、相談役として参画します。資本金100万円のうち5万円を菊三郎が出資しました。

浦賀船渠は、農商務大臣・榎本武揚を主唱者として構想されたもので、幕末の嘉永7年(1854)に幕府によって建造され、明治22年(1889)からは陸軍要塞砲兵幹部練習所として使用されていた、浦賀造船所の跡地に建造された造船所です。日清戦争によって高まった船舶の需要を賄うため、西浦賀の豪商・臼井儀兵衛などの地元の有志や、さまざまな財界人を交えて設立されました。

後年のことですが、明治40年(1907)には、明治から昭和にかけて、御殿山トラストシティの地に邸を構えていた原家の初代当主・原六郎も取締役に就任しています。(原六郎については第四回「原美術館と原邸」をご参照くだい。)

なお、浦賀船渠の実際の操業は、明治33年(1900)からです。

実は浦賀には、明治31年(1898)の段階で、既にもう一つの大きな造船所が開業していました。菊三郎の生涯のライバル・平野冨二率いる石川島造船所の浦賀分工場です。(当時の社名は東京石川島造船所)

現在の浦賀港。上が南。1kmほどの距離で対峙する浦賀船渠と石川島造船所(浦賀分工場)。明治33年(1900)~35年(1902)、両社の熾烈な競争が繰り広げられました。(Google Earthより)

浦賀分工場の着工は明治28年(1895)。浦賀船渠の着工は明治30年(1897)。浦賀船渠は、会社設立前の明治27年から事業地の選定と買収を始めてはいましたが、おそらく造船所の計画自体は、浦賀分工場の方が早かったと思われます。

造船所の建造中、両社の合併を斡旋する向きもあったようですが、両社ともに譲らず、結局、それぞれ同時期に開業することになりました。開業後、両社の熾烈な競争により、浦賀港は空前の大盛況となりましたが、それも束の間。結局は価格競争に陥り、どちらの会社も経営が圧迫されていきました。

お互いに体力を消耗するなか、水面下では合併に向けた密かな交渉が進められ、最終的に明治35年(1902)、浦賀船渠が浦賀分工場を買収する形で合併。浦賀分工場が、浦賀船渠の川間(かわま)分工場となることで決着しました。

合併後の浦賀船渠は、一時期、経営難に陥ります。しかし、日露戦争から太平洋戦争と続く軍事需要によって順調に経営を発展させ、特に駆逐艦の建造で顕著な業績を上げていきました。また、昭和11年(1936)からは兵器製造も手掛け、さらにその一方で、青函連絡船などの民間船も数多く建造しました。さらに、戦後は、海上自衛隊の艦艇や、超大型タンカーの建造などを手掛けていきました。

昭和44年(1969)、住友機械工業と合併し、名称を住友重機械工業に変更。しかし、昭和59年(1984)、川間工場を閉鎖。さらに、平成15年(2003)には、浦賀工場を閉鎖して、現在に至っています。

浦賀船渠は、結局、100年以上の操業で、1000隻以上もの船舶を建造しました。

文化遺産・レンガ積みドライドック

なお、両造船所の跡地に残る浦賀ドック(第1号ドック)と川間ドックは、いすれも日本国内で現存する唯一のレンガ積みドライドックとなっています(いずれも明治32年(1899)建造)。

「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)には、浦賀ドック(第1号ドック)の築造を菊三郎が担当し、そのことで、明治32年(1899)5月に感謝状を受け取ったことが記されています。

現在、大型のレンガ積みドライドックは、この2基を含めて世界に5基しかなく、貴重な文化遺産になっています。

ちなみに、残りの3基はすべてオランダに存在します。ヘルフースルイスに1基、デン・ヘルダーに2基です。オランダは石材に恵まれていないため、レンガが使用されたようです。また、小型のレンガ積みドライドックとしては、ドイツのフーズムに1基、現存しています。

オランダとドイツは、こられのドックを博物館として保存していますが、日本の2基のドックはそのような扱いにはなっていません。

浦賀ドック(第1号ドック) (横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」より)

地名に名を残した幻の鳥羽の造船所

明治36年(1903)、菊三郎(58歳頃)は、三重県鳥羽・安楽島(あらしま)の加茂川下流域を埋立て、そこに造船所を建造する計画を立ち上げます。翌年の明治37年(1904)から、早速、浚渫埋立工事がスタートしましたが、当時の技術では工事が難航し、結局、明治42年(1909)の菊三郎の死没を機に、この計画は頓挫することになります。

上:現在の伊勢湾地図(MapFanより)
下:点線で囲まれた部分の拡大。大正3年(1914)の地図。菊三郎は、鳥羽町の対岸にある三角形の加茂川下流域を埋立て、そこに造船所を建造する計画を立てました。埋立規模は、東西1km、南北1kmにも及びます。

地元の「伊勢志摩きらり千選実行グループ」が作成するHPによれば、菊三郎の計画は、埋立地にドック、倉庫、および、7000~8000t級の船舶を4~5隻係留できるような岸壁と造船所を建設し、さらにそこに参宮線を延長する、というかなり壮大なものだったようです。

埋立工事起工式の記念写真(鳥羽デジタルアーカイブスより)

菊三郎の造船所の建設は叶いませんでしたが、昭和になってから神戸製鋼所によって埋立工事は再開されます。しかしこれも太平洋戦争によって途中で中止になります。

戦後、今度は、食糧増産のために農水省によって、昭和29年(1954)から干拓事業が再開し、昭和38年(1963)に完成します。

しかし、約10年間の干拓事業のなかで、時代は「減反」の時代に突入。完成した干拓地は、農地利用されることなく、しばらく放置されることになります。

結局、鳥羽市が農水省から払い下げを受け、昭和46年(1971)から公共施設利用地として開発され、現在では、市民体育館、野球場、市民の森、公営住宅、図書館などが建ちならぶ一帯となっています。

下の地図は、埋め立て地の現在の様子を表しています。赤いエリアがが埋め立て地です。

赤いエリアが筆者の比定する埋立地(実際はもっと広いかもしれません)。東西およそ1.2km、南北およそ700m。総面積およそ480,000㎡。(地図:国土地理院より)

結局、埋立後の姿は、菊三郎の計画とはだいぶ異なるものとなっていまいましたが、実は、昭和56年(1981)、この埋立地の地名が、大明西町、大明東町に変更されました。読み方は、「おあきにしまち」と「おあきひがしまち」です。字こそ異なりますが、もちろん「緒明」に由来します。地元の方々の記憶に、菊三郎への思いが残っていたのでしょうか。

ちなみに、変更前の地名は、安楽島町字村上および船津町字鱸ケ渕(すずきがぶち?)です。

なお余談ですが、地名に名を残すという点では、横須賀市にある緒明山(緒明山公園)を挙げることができます。緒明山は、菊三郎の死後、租税として物納された土地で、横須賀市が、後年、緒明山と名付けたと言われています。詳細は不明です。

なお、緒明山(緒明山公園)と菊三郎の故郷・戸田にある緒明児童遊園とは別物です。

福澤辰蔵との関係

それにしても、菊三郎は何故、鳥羽に造船所を築こうとしたのでしょうか。詳細な経緯が分からないので、鳥羽という地名に唐突な感じを受けます。

以前、この記事の中で、福澤辰蔵という人物をご紹介したことがあります。福澤辰蔵は、菊三郎が最初に興した造船所(高橋のほとり、京橋区湊町)の近所の京橋区越前堀で、明治の初期から造船所を営んでいた人物です。

この福澤造船所で、菊三郎は、戸田から上京した明治5年(1872)以降、しばらくの間、働いていたのではないか、と筆者は考えています。(第二十回「緒明菊三郎」(3)を参照ください。)

その福澤が、実は明治11年(1878)に、鳥羽で造船所を立ち上げています。しかもその場所は、菊三郎の計画地からさして離れていない、鳥羽城の跡地(鳥羽城二の丸の海岸)です。

もしかすると、菊三郎にとって福澤は憧れの先輩であり、その後ろ姿を追って、鳥羽に造船所を築こうとしたのかもしれません。ただし、これは筆者の全くの想像です。

なお、福澤が興した鳥羽造船所の跡地には、現在、鳥羽水族館が建っています。

左:大正3年(1914)の鳥羽町の周辺図。菊三郎の埋立計画地の左上にある赤色のエリア(鳥羽町)を拡大したものが右の地図。
右:鳥羽城の二の丸があった場所にドック(船渠)を設けて、鳥羽造船所が建っています。

菊三郎の人柄

この記事の中で度々参考にしてきた「世渡上手の人々」(蘆川忠雄著、大正8年(1909)出版)によれば、菊三郎は、事業に成功し、大きな富を得た後になっても、一切、道楽には手を出さなかったようです。その証拠に、御殿山の邸の庭は、松と檜の苗が槍のように突出していて、いかにも殺風景だった、と記されています。著者・蘆川は、菊三郎について、最後にこんな文章で結んでいます。

氏には庭園の趣味なく、趣味は事業に存せるを知るべきものである、之に依ても、氏が如何に事業に勉励し、自己の快楽を忘れて、奮励のみ事とし、老いの至を忘れしかを知るに足るものである、熱心、業に努むる者は、斯くの如く有るべきは当然のことである。
(読点、筆者追加)

なお、「緒明」という珍しい名字の由来について、緒明太郎の婿・實(みのる)氏は、「(貧しかった頃、菊三郎あるいはその母親が)鼻を作っていたら(いつのまにか)朝になってしまった(夜がけてしまった。るくなってしまった。)。(そんな)貧しい時代を忘れないように(菊三郎が)緒明の名を付けた」と話されています(括弧は筆者による補足)。

前述の菊三郎の人柄をそのまま表しているエピソードです。

ただ、「幕末の日本」(金子治司著、早川書房、1968年出版)には、もともと「尾明」という名字だったのを明治になって「緒明」に改めた、と記されてますので、實氏が語る名字の逸話は、「尾」を「緒」に変えた経緯を説明したものなのかもしれません。

波乱万丈の菊三郎の人生は、明治42年(1909)1月6日、その幕を閉じます。享年64。池上本門寺にて永眠。

菊三郎の孫・緒明亮乍

前回の記事で触れたように、菊三郎には末っ子の長男・豊三郎がいました。

緒明家の家系図(筆者作成)

菊三郎は、豊三郎に家業を継いでもらいたかったようですが、実際は家業を継がず、米国留学後に分家して、英字経済新聞を発行するなど、家業とは縁のない世界で生きていました。

その豊三郎の息子に、緒明亮乍(りょうさく)がいます。亮乍は、父・豊三郎とは異なり、造船の世界で歴史に名を残しています。

大正4年(1915)、亮乍は、豊三郎の長男として生まれます。飯尾憲士著「静かな自裁」(文藝春秋、1990年出版)によると、外見は“眉目秀麗”だったようです。

昭和12年(1937)に東京帝国大学船舶工学科を卒業すると、海軍に入隊。戦時中は海軍技術科士官として主に潜水艦の設計を手掛けます。特殊潜航艇「蛟竜」(こうりゅう)や特攻兵器「回天」の設計にも関わっています。

戦後は民間会社に就職し、昭和26年(1951)、北海道大学・井上直一(なおいち)教授の依頼を受けて、潜水探測機「くろしお」を設計します。敗戦後6年しか経っていないなかで製造されたこの探測機は、日本の復興の早さを物語るものとして、当時注目を集めました。

昭和32年(1957)、亮乍は防衛庁技術研究本部に籍を移し、昭和35年(1960)に再び、北海道大学・井上教授の依頼を受けて、潜水探測艇「くろしおⅡ号」を設計します。くろしおⅡ号は、青函トンネル建設時の海底ボーリング調査に使用されてもいます。

さらに、昭和40年(1965)には、2代目・南極観測船となる「ふじ」を設計します。ちなみに、南極観測船の運用は当時、防衛庁が行いました。

亮乍の最期の仕事となったのが、昭和49年(1974)に建造された、カプセル型海洋潜水調査艇「うずしお」です。亮乍は、うずしおの設計アドバイザーでした。同年没。享年59。

なお、潜水探測艇「くろしおⅡ号」は、現在、福島町青函トンネル記念館(北海道)に展示されています。また、南極観測船「ふじ」は、現在、名古屋港ガーデンふ頭に係留されています。

左:潜水探測艇「くろしおⅡ号」
右:2代目・南極観測船「ふじ」 (いずれもWikipediaより)

以上で、緒明菊三郎の御殿山今昔物語はすべて終了です。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

参考文献、サイト

『御殿山今昔物語』バックナンバー

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