御殿山今昔物語 第二十七回『吉川英治と煙突と』(2)

御殿山今昔物語 第二十七回『吉川英治と煙突と』(2)

小説家・吉川英治は、昭和28年から32年にかけて御殿山に住んでいたことがあります。また、その邸宅は、国の登録有形文化財として今でも御殿山の高級住宅街に佇んでいます。吉川英治が当時の様子を記した随筆 『煙突と机とぼくの青春など』 には、書斎から見える製菓工場の煙突のことが記されています。ですが、令和の今、御殿山には煙突らしきものはまったく見当たりません。

今回も、前回に引き続き 「その煙突はいったいどこにあり、なんという名の製菓会社だったのか」 という疑問を探求していきます。今回の記事は、筆者がどうやってその答えを見つけていったのか、その諸々の経緯を含めたドキュメンタリーです。

なお、この記事は、御殿山今昔物語の連載を始めたばかりの2016年に執筆したものです。今回の掲載にあたり、若干の加筆、修正をしております。

前回のおさらい

前回の記事では、

①御殿山にゆかりのある製菓会社として、森永製菓と東洋製菓の2つがあること。
②大正期、御殿山の吉川英治邸の近くに森永製菓の工場が存在したこと。
③しかし、森永製菓の工場は吉川英治が御殿山で暮らしていた時期にはすでに閉鎖されていたこと。
④森永製菓の工場跡地の近くには、目黒川に架かる森永橋が今でも存在すること。

などをご紹介しました。

吉川英治が御殿山で暮らしていた頃に記した随筆 『煙突と机とぼくの青春など』 の中で語られていた、書斎から見える製菓工場の煙突。それはいったい、なんという製菓会社の煙突で、どこにあったのか。

今回も前回に引き続き、筆者がどうやってその答えを見つけていったのか、その諸々の経緯をドキュメンタリータッチにご紹介していきます。

なお、随筆 『煙突と机とぼくの青春など』 は、前回の記事にその抜粋を掲載しています。また原文は、下のリンクから、無料で閲覧することができます。

青空文庫 吉川英治『折々の記』

さて、前回の結論として、森永製菓の可能性がなくなってしまった以上、残る可能性は、東洋製菓ということになる訳ですが、吉川英治が書斎から見ていた煙突は、はたして本当に東洋製菓の煙突だったのでしょうか。

そもそも製菓工場には煙突があるのか?

実は、筆者にはそもそもの疑問がありました。それは、はたして製菓工場に煙突はあるのか?という疑問です。最近の工場では、業種を問わず煙突をあまり見なくなったような気がします。そのせいかもしれませんが、筆者の頭の中では、お菓子と煙突がイメージとして直結しません。製菓工場に煙突は必要なのか・・・。

(筆者の実家近くには、昭和50年代から現在にいたるまで明治製菓の工場がありますが、煙突は見当たりません。)

そんな疑問を持ちながらネットを検索していると、岡本綺堂(おかもときどう)という、明治から昭和初期にかけて活躍した小説家、劇作家が、大正14年(1925)に書いた随筆 『郊外生活の一年 大久保にて』 の中の一節にたどりつきました。

『尾州侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突 と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙と、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像がつくであろう。』
(岡本綺堂著 『郊外生活の一年 大久保にて』 より)

この随筆は、岡本綺堂が、関東大震災(大正12年(1923))の後に引っ越しをした東京の大久保の新居について綴ったものです。従って、文中にある煙突は御殿山の煙突のことではありません。ですが、”製菓工場には煙突が存在すること” がはっきりと記されています。

やはり、製菓工場には煙突があったようです。考えてみれば、ビスケットの類は焼いて作りますしね。それにこの随筆のおかげで、そもそも 東洋製菓という会社が大正期(吉川英治が御殿山にいた頃よりも前)に、実際に存在していたことが証明されました。

前回の記事にも書きましたが、東洋製菓に関する情報は、ネットにはほとんど存在しません。ネットの情報だけでは、その実在すら怪しい限りです。ですので、その会社が実在したことを示す上記のような傍証は、大変貴重な情報となります。

なお、この随筆は、下のリンクから無料で閲覧することができます。

青空文庫 岡本綺堂 『郊外生活の一年』

それにしても、大久保が “郊外”(随筆のタイトル)というのは、現代の感覚からするとちょっと驚きです。
ちなみに、冒頭の 「尾州侯の山荘」 とは戸山公園のことです。戸山公園はもともと尾張藩徳川家の下屋敷でした。

戸山公園(Googleマップ)

【注記】
後にわかったことなのですが、筆者が調べた限り、どうやら岡本綺堂が随筆の中で触れていた製菓工場は東洋製菓ではなく、実際は明治製菓だったようです。

詳述すると、綺堂が大久保に引っ越してきた大正13年(1924)3月当時、大久保には明治製菓の工場がありました。いや、正確にいうと、明治製菓の前身の東京菓子という会社の工場がありました。ところが、この東京菓子、綺堂が大久保に引っ越してきた約半年後の大正13年10月に、社名を明治製菓に変更しています。

ここからは筆者の想像ですが、東京菓子、改名したばかりで知名度の低くかった明治製菓、そして、随筆に実名が載るくらい知名度が高かった東洋製菓、という3つのワードが綺堂の頭の中で錯綜し、挙句、「東洋製菓の煙突」 という勘違いに至ったのではないでしょうか(東京菓子+明治製菓=東京製菓!? さらに、東京製菓→東洋製菓)。東京菓子と東洋製菓。字面も発音も、なんとなく似ています。

とはいえ、これはあくまでも筆者が調べた範囲の結果ですので、もしかすると本当に東洋製菓の工場が大久保にあったのかもしれません。

なお、工場があった場所は、超有名進学校・海城中学校/高校と西武新宿線/JR山手線の間に挟まれたエリアです。跡地には、現在、JR東日本の社宅が建っているようです。

明治製菓の工場跡地(Googleマップ)
明治製菓の社史によると、昭和5年(1930)に大久保の工場は廃止されたようです。

大正期から昭和期にかけての大工場地帯

さて、本題からは少し離れてしまいますが、ここで、大正期から昭和期にかけての御殿山周辺の街の様子をご紹介します。

実はその当時、吉川英治邸の南(御殿山の南)、具体的には、五反田駅から大崎駅にかけての目黒川沿い、および、大崎駅から大井町駅にかけての東海道線沿い、は中小の工場が林立する一大工場地帯でした。

前回ご紹介した吉川英治の随筆 『煙突と机とぼくの青春など』 の中に 「工場地帯」 という言葉が、度々出てくるのが、まさにその工場地帯のことです。

下の図は、品川区のHPで閲覧できる資料の抜粋です。この一帯が、大正10年(1921)の段階ですでに大きな工場地帯になっていたことがわかります。

資料Ⅰ)大正10年(1921)の工場分布

資料Ⅱ)昭和10年(1935)の工場分布

❑ 資料の出典:品川区まちづくりマスタープラン 第2章「市街地形成のあゆみ」

また、品川区が主催するサイト 「しながわWeb写真館」 には、昭和30年前後の工場地帯の写真が紹介されています。写真を見ると、この一帯に煙突が無数に林立していることがわかります。もしかするとこの中に東洋製菓の煙突が写っているかもしれません。

なお、著作権の関係で写真を直にこのサイトに掲載することができませんので、写真はリンクをクリックしてご覧ください。

写真Ⅰ)「品川区内の工場の多い地区」(昭和32年(1957))
まさに煙突の林立を地でいく圧巻の光景です。ざっと数えただけでも20本以上の煙突が映っています。すべての煙突から煙が出ていたと想像すると、ちょっと恐ろしくなります。東品川3丁目は、目黒川の南、京急(新馬場駅から青物横丁駅)とりんかい線に挟まれたエリアです。

写真Ⅱ)「旧庁舎から見た北品川の風景」(昭和28年(1953))
旧庁舎というのは品川区役所のことです。当時は、京急・新馬場駅前にありました(新馬場駅は昭和50年開業)。手前の大きな煙突は、庁舎そのものに設置されていた煙突のようです。写真は、庁舎から南西方向を写したもののようです。 

写真Ⅲ)「旧庁舎から見た北品川の風景」(昭和28年(1953年))
写真Ⅱと同じ地点から撮影したものと思われますが、角度が北西方向になっています。手前から左に伸びている大きな道は山手通り、中央の大きな横長の建物はおそらく城南中学校(現:品川学園)の校舎です。

下の図は、写真Ⅲをスケッチしたものです。(写真の現物を掲載できないので苦肉の策です。)

筆者作

さらに下の地図は、写真Ⅲのアングルを推測し、現在の地図に重ねたものです。

MapFanより

前述のとおり、写真のタイトルになっている 「旧庁舎」 とは、品川区役所のことです。現在は大井町に区役所がありますが、当時は、京急・新馬場駅近くの東海橋のたもと(現・品川区保健センター)にありました。(昭和43年(1968)、幻庁舎へ移転)。

また、地図の①は吉川英治邸、②はJTP本社です。

さらに、下の画像は、Google Earthを使って、写真Ⅲと同じアングルを確認したものです。(視点は写真Ⅲのものより若干上空になっています。)

Google Earthより

東洋製菓はどんな会社だったのか

さて、改めて東洋製菓です。何度もいうように、東洋製菓に関する情報はネットにもほとんど見当たりません。もちろんWikipediaにも載っていません。(韓国の製菓会社オリオン(旧・東洋製菓)とは別物です。)

ですが、ある一時期において、御殿山のどこかにその会社の工場があったことだけは確実なようです。東洋製菓とはどんな会社で、御殿山のどこにあったのか、この2つ疑問に集中することにしました。

いよいよここからが佳境なのですが、少々話が長くなってしまったので、この続きは次回といたします。

次回は、東洋製菓がどんな会社だったのか。そして、御殿山のどこにあったのか、その疑問を解明していきます。ご期待ください。

※サムネイルの写真は、品川区HP 「品川歴史散歩案内」 の 「大正時代の品川 第1回」 に掲載されている 「大正9年頃の大崎町の工場地全景」 です。

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