御殿山今昔物語 第二十八回「吉川英治と煙突と」(3)

御殿山今昔物語 第二十八回「吉川英治と煙突と」(3)

小説家・吉川英治が、その随筆『煙突と机とぼくの青春など』に記している、御殿山の自宅の書斎から見えるという製菓会社の煙突は、はたして東洋製菓の煙突だったのか。そして、東洋製菓とは、そもそもどんな会社だったのか。

これまで2回にわたって探求してきたこのテーマも、今回で3回目となります。今回は、ネットにほとんど情報が見当たらない、謎多き東洋製菓の歴史を掘り下げていきます。

なお、この記事は、御殿山今昔物語の連載を始めたばかりの2016年に執筆したものです。今回の掲載にあたり、かなり加筆、修正してあります。

前回までのおさらい

前回までの内容を要約すると、

①御殿山にゆかりのある製菓会社として、森永製菓と東洋製菓の2つあったが、大正期に御殿山下(北品川宿小関)に実在した森永製菓の大崎工場は、吉川英治が御殿山に住んでいた昭和30年代初頭にはすでに閉鎖されていた(大正15年に閉鎖)。

②岡本綺堂の随筆『郊外生活の一年 大久保にて』によれば、東洋製菓は少なくとも関東大震災当時(大正12年(1923))には実在していた。そして、そもそも製菓工場には煙突があった。

③さらに、大正期から昭和期にかけて、御殿山周辺(五反田~大崎~大井町)には、たくさんの町工場が存在し、多くの煙突が林立していた。

などをご紹介しました。

上記①のように、森永製菓の可能性がなくなってしまった以上、残る可能性は東洋製菓ということになるわけですが、はたして、吉川英治が書斎から見ていた煙突は、本当に東洋製菓の煙突だったのでしょうか。今回の記事もまた、その調査の過程を含めたドキュメンタリーとなっています。

なお、随筆『煙突と机とぼくの青春など』について、その抜粋を前々回の記事で確認することができます。また、その全文は、青空文庫 吉川英治『折々の記』で確認することができます。

東洋製菓とはどんな会社だったのか?

これまで何度も(しつこく)触れてきたように、東洋製菓に関する情報はネット上にほとんど見当たりません。もちろんWikipediaにも載っていません。韓国に、同名の製菓会社がある(あった)ようですが、残念ながらそれとは別物です。

しかし、数少ない情報のかけらを拾い集めてみると、ある時期、御殿山、あるいはその周辺のどこかに、その会社の工場があったことだけは確なようです。

東洋製菓の会社概要

実は、初回の記事で触れた「品川区史」(品川区、1974年)の中に、森永製菓の創業時の様子を記した一節があり、そこにこんなことが書かれています。

『ちょうどその頃、品川町に本店をおき、ビスケット・ドロップなどの各種の菓子製造にのり出すべく「喜楽煎餅」の長谷川喜楽を中心に、東洋製菓株式会社(明治33年6月設立、資本金は20万円)の創立相談会が開かれていたが、これには当時一流の菓子店舗の主人たちが集まっていたという。』
(「品川区史」より)

冒頭の「ちょうどその頃」とは、明治32年(1899)のことです。この文章からわかることは、”東洋製菓は、複数の菓子業者が集まって作った会社” らしいということです。しかし、それ以上のことは、この一節だけではわかりません。

品川図書館の図書館司書さんに相談

品川図書館品川歴史館に通いつめ、タイトルだけを頼りに目についた本を読み込んでいく。そんな調査方法に、早々に限界を感じてしまった筆者は、勢い品川区図書館の図書館司書さんに相談することにしました。

応じてくれたのはIさんです。Iさんに、今回の調べものの趣旨を説明し、参考となる資料を探してもらうことにしました。

待つこと数日、Iさんは、「木村屋總本店百二十年史 おかげさまで創業百二十年」(木村屋總本店、1989年)という本を紹介してくれました。

なんと、”あんパン” で有名な銀座の木村屋も、東洋製菓の設立に深い係わりを持っていたのです。その本には、以下のようなことが記されていました。若干、内容に不明瞭な箇所があったので、筆者の推測も交えながら、まとめてみました。

①木村屋總本店三代目当主・木村儀四郎(きむらぎしろう)らを中心に、東京と横浜の複数の菓子屋が集まって明治33年(1900)、東洋製菓株式会社が創立された。

②東洋製菓は日本の近代的ビスケット工場の始祖であった。

③東洋製菓の仮事務所は、木村屋總本店のあった京橋区銀座4丁目にあったが、工場は品川区御殿山にあった。

④木村儀四郎は、東洋製菓の専務取締役であったが、経営内部のゴタゴタに嫌気がさして1年足らずで辞めてしまった。

⑤日露戦争(明治37年(1904))の数年前、日本陸軍は、戦時食糧について、火を使った炊飯の食事から、火を使わないビスケットや缶詰の食事に変換しようとしていた。陸、海軍省は、軍指定のビスケット工場をつくるように、東京の主だったパン屋、菓子屋に話を持ち掛けたが、応じる会社がなかったため、やむなく陸軍は独自に戦時食糧の研究を始め、その実験に東洋製菓が協力した。

⑥陸軍は、東洋製菓の工場で実験を重ねながら明治36年(1903)、乾パンを完成させた。乾パンは、日露戦争時に使用された。

⑦その功をもって、日露戦争後、政府は東洋製菓に対して褒状を出した

⑧1年足らずで辞めてしまった木村儀四郎であったが、東洋製菓で見た、ビスケットの生地にジャムを挟んで焼く作業をヒントにして、木村屋總本店でジャムパンを開発した。

以上です。

写真:Wikipediaより

数ページにもわたる貴重な情報です。これまで輪郭すらわからなかった東洋製菓という会社の様子が、おぼろげながら、いや、かなり具体的に見えてきました。どうやら、主力製品としてビスケットを作っていた会社のようです。

また、調査の過程で見つけたあるサイトには、東洋製菓は、製菓会社として初めて株式会社の形式を採った、ということも記されていました。

さらに、品川歴史館で見つけた「目で見る品川区の100年」(郷土出版社、2011年)という本には、「東洋一の設備を誇った」とも記載されていました。どうやら、当時としてはかなり大規模な会社だったようです。

下の画像は、大正7年(1918)に出版された「和洋菓子大観」という本の中に掲載されている東洋製菓のチラシです。

よく見ると、右上には、日露戦争の際に内閣(賞勲局)から授与された褒状が描かれています。曰く、「明治三十七八年戦役の際 尽力少なからず 依って褒せらる」。

さらに左上には、ビスケットやドロップが赤道直下を通過した際にも品質を保っていたことを示す、南極探検隊からのお墨付き(証明状)が描かれています。曰く、「今回当隊が携行したる糧食中、前記貴会社の製菓は、赤道直下を通過の後も何等の異状変味なく、其品質と製法との共に優良なるを認む。依ってこれを証明す。」。

ちなみに、この証明状を発行した南極探検隊。日付が明治44年(1911)になっていますので、おそらく日本で初めて南極点を目指した白瀬 矗(しらせ のぶ)率いる白瀬隊のことだと思われます。東洋製菓は白瀬隊のスポンサーだったのかもしれません。ちなみに、このとき白瀬隊は、残念ながら南極点へ到達することはできませんでした。

東洋製菓のチラシ(国立国会図書館デジタルコレクション 『和洋菓子大観』)

木村屋總本店へ相談

実は、前出の 「木村屋總本店百二十年史」 を読んで、少しばかり気になったところがありました。それは、軍がビスケット工場の設立を東京の主だったパン屋・菓子屋に要望したことと、木村儀四郎が同業者を募って東洋製菓を設立したこととの間に因果関係があるのか、ないのか。要するに、軍の要望があったればこそ、東洋製菓なる会社が作られたのかどうか、という点です。

素直に「木村屋總本店百二十年史」を読めば、因果関係はなさそうなのですが、どちらの出来事も同じ明治33年(1900)の出来事なので、ちょっと気になってしまったのです。

はて、この疑問を解消するにはどうすればよいか・・・。

ということで、思い切ってこの件を、木村屋總本店(株式会社 銀座木村家)に質問をさせていただきました。

すると、酒種室のYさん(2016年当時)が丁寧に対応してくださり、「木村屋總本店百二十年史」のネタ元になった「パンの明治百年史」(パンの明治百年史刊行会、1970年)という本をご紹介いただきました。

ちなみに、木村屋三代目当主・木村儀四郎の読み方が「ぎしろう」であることもYさんから教えていただきました。

「パンの明治百年史」 によると

「パンの明治百年史」を読んでみると、やはり、軍の要請と東洋製菓の設立には、直接的な因果関係はないことがわかりました。

それよりもむしろ「パンの明治百年史」には、木村儀四郎がなぜ東京、横浜の同業者を募り、東洋製菓を設立したのか、その理由が縷々説明されていました。

その理由とはずばり、“ビスケットは儲かる“ と見込んだからです。

まぁ、これだけですとあまりにも身も蓋もないので、儀四郎さんの名誉のために補足すると、儀四郎さんには、”国内のビスケット産業を育成し、ビスケットの輸入を減らして輸出を増やしたい” という強い思いがあったようです。

このことはいずれも東洋製菓を設立する際に儀四郎さんが発表した「創立賛成勧誘状」に記載されています。

日清戦争後の好景気に沸いていた当時の日本では、空前のお菓子ブームが起きていました。特にビスケットは、その大半が輸入品で高価であったにも関わらず(明治32年には関税が5%から15%に引き上げられたにもかかわらず)品薄になるくらい、売れていました。

原価が安く利ザヤの大きいビスケットが、目の前でバカ売れしている状況を、ただ指をくわえて眺めているのはもったいない、と考えたかどうかまでは「パンの明治百年史」には記されていませんが、おそらく、同じような思いを抱いた儀四郎さんは、京浜地域の同業他社を募って、東洋製菓の設立を構想しました。

なぜ儀四郎さんは、単独で会社を興さなかったのか。その理由については「パンの明治百年史」にも記されていないのですが、おそらく、同業他社を交えて出資を募った方が、いち早く、大規模な近代的ビスケット工場を作ることができる、と見込んだからではないでしょうか。

ところが、イギリスから最新のビスケット機械一式を購入し、イギリス人技師を招いて、イギリス本国と同じ製法で作った東洋製菓のビスケットは、まったく売れませんでした。どうやら消費者は、国産のビスケットではなく、舶来のビスケットというブランドに興味があったようです。

当初の思惑とは裏腹の状況は、儀四郎さんの立場を危うくすることになり、儀四郎さんはたった1年で東洋製菓を辞することになります。

ただ、儀四郎さんが辞めたあとの東洋製菓は、日露戦争および、第一次世界大戦時の軍用ビスケット需要に支えられ、業績を一気に向上させていきます。「パンの明治百年史」の中で紹介されている「ビスケット工業史」(全国ビスケット協会、森永太平編纂、1951年) という本には、東洋製菓の業績について、以下の一節が記されているそうです。

『東洋製菓の設立をスタートとするビスケット工業の近代化は、わずか数年の間に菓子工業史におけるビスケット工業に不動の地位を示させるに至った』
(全国ビスケット協会「ビスケット工業史」より)

軍との関係

ところで、東洋製菓の歴史を探ってみると、その発展に軍との関わりがどうしても付きまとってきます。なので、そのあたりのことにも触れておきます。

そもそものきっかけは、明治33年(1900)、中国で起こった北清事変(義和団の乱)でした。当時、中国本土に進出した日本軍は、依然として火を使った炊飯を戦時食糧の基本としていました。しかし、夜間における炊飯時のたき火は、敵にとっての恰好の標的となり、そのため他国に比べて、日本軍は甚大な被害を受けていました。

事変後、日露戦争を見据えていた軍は、このことを重く受け止め、戦時食糧として、ビスケットと缶詰の本格導入を検討し始めます。手始めに軍は、軍指定のビスケットを大量生産できる大規模ビスケット工場の設立を、東京の主だった菓子、パン業者に打診します。しかし、一時的な需要のために大きな投資をすることはできないという理由で、賛同する業者は現れませんでした。

一方で、軍は兵糧パンの研究を始めます。ドイツで軍用パンの研究をしていた陸軍の福岡少佐と、東洋製菓が招聘したイギリス人技師に協力していた伊藤勉一の2人が、東洋製菓の設備を使って実験を重ねます。そしてついに、日露戦争の前年の明治36年(1903)、「重焼麺麭」(じゅうしょうめんぼう)なる軍用パンを完成させます。”重焼” とは繰り返し焼くこと、”麺麭” とはパンのことなのでが、パンといっても実態はビスケットに近いものだったようです。

明治37年(1904)、いよいよ日露戦争が始まると、軍はこの重焼麺麭の量産を菓子、パン業者に指示します。その主な担い手となったのが、東洋一の近代設備を誇っていた東洋製菓でした。

ちなみに、重焼麺麭というネーミングですが、“重焼” が “重傷” を連想させるという理由で、後に乾パンと改められたようです。

以上が、さまざまな方のご協力のもと、筆者がたどり着いた東洋製菓の全貌です。

少なくとも、町工場レベルの小さな会社ではなく、大規模な近代的製造会社であったことだけは確かなようです。

では、その東洋製菓の工場は御殿山のどこにあったのか?
次回は、東洋製菓の煙突の場所をじっくりとご紹介します!ご期待ください。

最後にあらためて、ご協力いただいた品川図書館のIさん、木村屋總本店のYさんに感謝申し上げます。ありがとうございました。

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