御殿山今昔物語 第三十回「鐘鋳の松と信玄籏懸の松」(前編)

御殿山今昔物語 第三十回「鐘鋳の松と信玄籏懸の松」(前編)

第十一回「伊達宗陳」(後編)(2017年8月掲載)の中でご紹介した「鐘鋳の松(かねいのまつ)」。先日、品川図書館で、その松が植えられていた場所を印した1828年(文政11年)の地図を発見しました。

地図の示す場所は、以前、記事の中でご紹介した場所とは、まったく異なっていました。今回は、その訂正の意味も含めて、改めて「鐘鋳の松」をご紹介します。

鐘鋳(かねい)の松とは

鐘鋳の松とは、現存する芝・増上寺の梵鐘が、1673年に御殿山で鋳造された際、その鋳造の成功を記念して御殿山に植えられた松のことです。椎名伊予守吉寛(よしひろ)という鋳物師が、苦心の末にやっとの思いで鋳造した鐘だったため、記念して植えられました。

昭和11年(1936)に出版された「御殿山史」(鈴木善太郎著)という本には、増上寺の鐘は開山以来すでに7度も割れていたので、椎名伊予守が鉄砲方の井上外記(げき)に相談し、トタン(亜鉛)を混ぜると割れなくなることを教わって、1673年11月20日(※)にようやく完成し、同月30日に増上寺へ運ばれた、と記されています。また、その松が御殿山の名所として文政年間(1818~1831)まで、約160年間に渡って残っていたとも記されています。

下は、増上寺のHPに掲載されている梵鐘の写真と、筆者が撮影したその案内板の写真です。案内板には、以下のような説明が書かれています。

『(鐘楼堂は)寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘に数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ1丈(約3メートル)重さ40貫(約15トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」、「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。』
(注)漢数字をアラビア数字に変えてあります。

鐘楼堂が完成したのが1633年。梵鐘が完成したのが1673年。その間に40年の開きがあります。増上寺の寺史「三縁山志」(1819年完成)という本には、1629年と1648年の2回、鋳造が試みられ、いずれも失敗したことが記されています(1回目の失敗の際にスペアの鐘を掛けることにしたようです。)。当時の技術力で、この大きさの梵鐘を鋳造することは、相当、難しかったようです。

ちなみに、冒頭で引用した「御殿山史」およびその出典元と思われる「事蹟合考(じせきがっこう)」という本には、梵鐘が開山以来7度もひび割れたと記されています。一方、梵鐘の案内板、および増上寺のHPには、1673年の鋳造の際に7回鋳造を繰り返したと記されています。

どちらも同じ7という数字なのですが、若干、内容が異なっています。両者は別々のことを言っているのでしょうか、それとも同じことを言っているでしょうか。あるいは、別々だけれども、どちらも同時に起こった出来事なのでしょうか。些細なことかもしれませんが、ちょっと気になります。

それにしても、こんな大きな梵鐘がなぜ増上寺から距離のある御殿山で鋳造されたのでしょうか。その経緯についてはどの文献にも記されていないようです。想像するに、鋳造当時、御殿山にはまだ、将軍が鷹狩りの際に利用する品川御殿が健在で、幕府にとって監視や警護がしやすかった(治安が良かった)。鋳造に必要な土が豊富にあった。重いものを運搬するのに必要な川や海が近くにあった(目黒川、品川湊)。品川宿という繁華街が近くあって、作業員の衣食住を調達しやすかった。などなど、もろもろ条件が重なって御殿山が選択されたのかもしれません。

それに、鋳造を命じた将軍家綱の父・家光にゆかりのある東海寺が近くにあったことも関係しているのかもしれません。東海寺(臨済宗)は家光の命により創建されたお寺、増上寺(浄土宗)は徳川家の菩提寺です。

ちなみに、御殿山は、江戸時代を通じて桜の名所として有名でしたが、この地に初めて吉野から桜を移植させたのも家綱だったといわれています。

また、梵鐘を鋳造した椎名伊予守良寛は、約20年後の1692年、東海寺に現存する梵鐘の鋳造も手掛けています。

「江戸名所図会三縁山増上寺 大銅鐘」(国立国会図書館デジタルコレクション)
「三縁山志 鐘楼」(国文学研究資料館)

※「御殿山史」では増上寺の梵鐘が完成した日を11月20日としていますが、「江戸名所図会」では11月14日、「三縁山志」では24日、「新編武蔵風土記原稿」では24日としています。

鐘鋳の松の場所

鐘鋳の松は御殿山のどこに植えられていたのでしょうか。

冒頭で触れた1828年(文政11年)の地図が印す場所をご紹介する前に、前回の記事と同様、まずは文献から推測してみます。

場所について、ヒントを提示している文献は、以下の3つです。文献ごとに該当箇所をご紹介します。なお、タイトルの横の西暦は出版年です。また、読みやすくするため句読点を追加したり、当用漢字に変換したりしています。

「新編武蔵風土記稿」(1830年)

山北、砲術稽古場の界に一株の古松あり。土俗、鐘鋳松と呼ぶ。囲一丈。

【解説】
「山北」とは、おそらく「御殿山の北」の意味です。また、「砲術稽古場」とは、出版当時、御殿山にあった、鉄砲や大砲の練習場のことです。「囲」とは松の胴まわりのことで、「一丈」とは約3mのことです。

ちなみに、この砲術稽古場で実際に稽古をしていたのは、代々、幕府の鉄砲方(役職名)を務めていた井上家です(当初は佐々木家でしたが、途中から井上家に替わりました。)。井上家の家祖は、椎名伊予守吉寛にトタン(亜鉛)を混ぜることを助言した井上外記(げき)こと、井上正継(左太夫)です。

ただし、鋳造した当時(1673年)は、まだこの場所に稽古場はありませんでした。稽古場ができたのは、鋳造の約50年後、1727年のことです。

なお、井上外記のトタン(亜鉛)のエピソードの出典元は「事蹟合考(じせきがっこう)」(柏崎具元、1746年起筆)という本のようです。「事蹟合考」は、江戸初期の市中の風俗の沿革などを記した随筆です。下のリンク先で、その原文を読むことができます。下の画像のとおり、本文はかなりの達筆ですので、筆者にはほとんど解読不能でしたが、なんとか梵鐘のくだりを探し当てることができました。なお、増上寺の寺史「三縁山志」にもほぼ同じくだりが引用されています。その読み下し文を巻末に付けておきました。

「事蹟合考」

「新編武蔵風土記稿 鐘鋳松」(国立国会図書館デジタルコレクション)
「事蹟合考」(新日本古典籍総合データベース)
「三縁山志 鐘楼」(国文学研究資料館)

「江戸名所図会」(1834年)

増上寺の鯨鐘を鋳たる地名なり。其跡の印に植えたる松なり。北の方、畠の中に存せり。

【解説】
「鯨鐘」とは梵鐘の別称で「げいしょう」と発音します。「北の方」とは、おそらく「御殿山の北の方」という意味です。

「江戸名所図会 鐘鋳松」(国立国会図書館デジタルコレクション)

「御殿山史」(1936年)

鐘が松の南、(中略)享保十二年から鉄砲稽古所となった

【解説】
「鐘が松」とは、鐘鋳の松の別称です。また、鉄砲稽古所とは先述の砲術稽古場のことです。松の南に砲術稽古場があったということは、松は砲術稽古場の北にあったことになります。

以上の3つの文献を手掛かりにして、2017年当時「伊達宗陳」(後編)の中で筆者が推定した松の場所は、下の地図の赤い網掛けのエリアでした。

現在の地図でいうと、(目を凝らして見ていただくとわかると思いますが)新八ツ山橋の南詰から北品川駅にかけての第一京浜(国道1号線)上、ということになるでしょうか。

地図:復元・江戸情報地図(朝日新聞社、1994年)

しかし、実は2017年当時から、なんとなくですが「この場所ではない」ような気がしていました。そのことは、「伊達宗陳」(後編)の末尾にも記しています。曰く、「文献とは矛盾しますが、筆者は、鐘鋳の松は、本当は、稽古場の南西、版木置き場の南東角あたりにあったのではないかと考えています。」

1828年(文政11年)の地図

「この場所ではないのでは?」という思いを抱いていたある日、品川図書館で1828年(文政11年)の地図を発見しました。品川図書館には、たくさんの古地図が所蔵されていますので、この地図も何気なく手にした地図にすぎませんでした。しかし、中身を見て驚きました。なんと、鐘鋳の松の場所が印されているではありませんか!

下がその地図です。

やはり、2017年当時の推測は間違っていました。松は、砲術稽古場の北ではなく、南に植えられていました。見ての通り、方位、縮尺がだいぶ大雑把な地図です。ですので、松の場所が現在のどの辺りに相当するのかは推測するしかありません。

「復元・江戸情報地図」(朝日新聞社、1994年)を使うと、砲術稽古場(=大筒稽古場)が現在のどの辺りに相当するのか、かなり正確に把握することができます。そこから推測すると、松は品川女子学院の敷地内にあったことがわかります。

(だた、「新編武蔵風土記稿」によれば砲術稽古場の広さは約910坪。隣の塙次郎(群書類従の版木置場)の広さは約1060坪となっているので、塙次郎と比べて稽古場はもう少し小さいはずなのですが・・・)

地図:復元・江戸情報地図

GoogleEarth

信玄籏懸の松

1828年(文政11年)の地図をよく見てみると、鐘鋳の松のとなりに「籏懸松跡」と印されています。この松も、鐘鋳の松と同様に、江戸時代、御殿山の名所となっていた松です。由来は、戦国時代(1569年)、武田信玄が小田原の北条氏に攻め入った際、休憩時にこの松に籏を立て掛けた、というものです(当時の品川は北条氏の支配下にありました)。

「籏懸松」と印されていますので、この地図が作成された当時、すでに松は枯れていたものと思われます。「新編武蔵風土記稿」(1830年)には「40年前まで松があった」といった趣旨の記載がありあますので、おそらく1790年頃まで健在だったのではないでしょうか。この松も、鐘鋳の松と同様に、この地図を見つけるまで、場所が不明でした。

地図の場所を現在に当てはめると、おそらくは、JR各線が走っている切り通しと、御殿山トラストシィの境目ぐらいになるのではないでしょか。

(1828年の地図に描かれている、畠と御殿山の境界線を赤い破線で強調しました。その境界線と復元・江戸情報地図の同じ境界線とを比較して、上記の結論に達しました。)

「籏」が籏懸の松の跡

GoogleEarth

「新編武蔵風土記稿 信玄旗掛松」(国立国会図書館デジタルコレクション)

ちなみに、籏懸の松の誕生のきっかけとなった永禄12年(1569)の信玄の北条攻めについて、当時、北条氏の支配下にあった品川での出来事として、以下のような逸話が残っています。

平安時代の9世紀初頭に創建された品川で最古のお寺、品川寺(ほんせんじ)(当時は、金華山大円寺)。信玄は、攻め入りの際、その伽藍を焼き払ってしまったのですが、武田方の2人の侍が、このお寺のご本尊である水月観音(すいげつかんのん)を奪って甲州まで持ち帰ってしまいます。ところが、その2人の侍は、その後、相次いで発狂。さらに、村の子の口を借りて「我は品川金崋山の観音なり。一瞬たりともこの場所に留め置くことなかれ。早く品川に帰し送るべし。」というお告げがもたらされます。村人たちは恐怖におののきましたが、そのことを耳にした信玄が、武蔵国出身の乞食に命じて水月観音を品川に返還させ、さらに、もとあったお堂の跡地に草堂を建てさせて安置した、というものです。

この話は、「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」「小田原記」などに記載されていています。(文献ごとに話の詳細が微妙に異なっています。)

なお、水月観音はもともと弘法大師空海の持仏とされており、現在でも、品川寺(真言宗)のご本尊として大切に祀られています。(本尊は非公開となっています。)

品川寺(江戸名所図会)

❑ 品川寺(GoogleMap)
「江戸名所図会 品川寺」(国立国会図書館デジタルコレクション)
「新編武蔵風土記稿 品川寺」(国立国会図書館デジタルコレクション)
「小田原記 信玄小田原出張之事」(国立国会図書館デジタルコレクション)
❑ 品川寺HP

さらに余談ですが、大正6年(1917)に「信玄公旗掛松事件」という国家賠償を求める訴訟事件が山梨県で発生しています。言うまでもなく、この訴訟事件と御殿山の籏懸の松とは全く関係ありません。

❑ 信玄公旗懸松事件(Wikipedia)

鐘鋳の松はいつ消失したのか

鐘鋳の松はいつごろまで健在だったのでしょうか。「新編武蔵風土記稿」(1830年)も「江戸名所図会」(1834年)も、出版当時、松はまだ健在だったようなので、その末路についての記載がありません。唯一「御殿山史」(1936年)にだけ、文政年間に松は消失したと記されています。

文政年間とは1818~31年のことです。ところが、文政年間よりも後の1834年に出版された「江戸名所図会」には、「北の方、畠の中に存せり」と書かれており、松が現在進行形で健在であるかのように記されています。

つまり、「御殿山史」と「江戸名所図会」は矛盾しているのです。なので、結局は想像するしかありません・・・・。

2017年当時の筆者は、当時推定した松の位置(間違っていた当初の松の位置)からして、明治5年(1872)、御殿山を切り崩して品川~横浜に鉄道を初めて敷いたとき、あるいは、かなり楽観的ですが、昭和2年(1927)、第一京浜(国道1号線)が開通したとき、と推測しました。

しかし、今回判明した正しい位置からすると、やはり、幕末、品川沖に台場を建造するため、御殿山が土取場になったとき(1853~54年)、あるいは、その後、御殿山に英国公使館が建設されたとき(1862年)だと思われます。

特に、前者(御殿山が土取場になったとき)が可能性としては高いように思います。というのは、下の「御殿山公使館地図」(1862年頃か?)からすると、松の場所がちょうど土を運搬する際の出入り口付近に相当するからです。

小さくて見にくいとは思いますが、青い網掛けのエリアには「鉄砲矢場」と記されています。もちろん、砲術稽古場のことです。土取場の大きさはおよそ東220m、西170m、南200m、北200m、高さ9m、面積40000㎡といわれています。(東120間、西96間、南112間、北110間、高さ5間、面積11988坪)

台場建造中は、品川宿でも、土の運搬に邪魔な家屋が強制的に取り壊されたりしましたので、たかだか1本の松にすぎない鐘鋳の松は、顧みることなく、倒されてしまったのではないでしょうか。

鎌倉時代、品川氏が館を構えたことに端を発し、太田道灌、徳川家康、家光が御殿を建て、桜の名所として人々の憩いの場であった御殿山を、無残に切り崩してしまうほど、焦りに焦っていた幕府にとっては、鐘鋳の松を気に掛ける余裕を失っていたのでしょう。(といっても、品川御殿のあった辺り(=英国公使館)は土取場から除外されています。)

なお、御殿山と畠の境目を目安にして土取りが行われたとすると、籏懸の松(この時はすでに枯れていたはすですが)の場所は、ぎりぎり土取場の外側に該当したのでは、と考えています。

❑ 御殿山公使館地図(東京大学史科編纂所)

予告:鐘鋳の松を描いた絵はあるか?

さて、ここまでくると鐘鋳の松、あるいは、籏懸の松を目で見たくなってきます。とはいえ当時の写真が存在するはずはないので、浮世絵などとして描かれたものを見たくなってきます。

はたして鐘鋳の松、籏懸の松を描いた絵は存在するでしょうか。次回、後編では松を描いた絵についてご紹介していきます。ご期待ください。

付録:「三縁山志」に引用されている部分の読み下し文

増上寺大鐘、厳有公(※)の御世まで凡そ七度ひびれ申候。因玆(これにより)鉄砲御用衆井上左太夫、元祖外記に仰付られ、何とそ此鐘の永代やふれざる地金あはせ工夫可致(いたすべく)旨仰付られ候處、とたんといふ金を入候て永代破れ申ましきと申し上るに依て、即御鋳物師椎名伊予に被仰付、右の金をいれて鋳立候處ろ今に至り少しもひび入らずとなり何十里もひびき候なり。

※厳有公=四代将軍・徳川家綱

わかりやすくするため句読点を追加してあります。

「三縁山志 鐘楼」(国文学研究資料館)
❑ 読み下し文(『江戸名所図会』グループ・江戸名所図会を歩く)

 

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