御殿山今昔物語 第三十一回「鐘鋳の松と信玄籏懸の松」(後編)

御殿山今昔物語 第三十一回「鐘鋳の松と信玄籏懸の松」(後編)

前編のおさらい

鐘鋳の松(かねいのまつ)とは、現存する芝・増上寺の大梵鐘が御殿山で鋳造されたのを記念して、1673年に御殿山に植えられた松のことです。

また、信玄籏懸の松とは、1569年、武田信玄が小田原の北条氏に攻め入った際、御殿山での休憩時に旗を立て掛けたとされる松のことです。

江戸時代、両松は御殿山の名所として人々に親しまれていました。

前編では、品川図書館で発見した1828年(文政11年)の地図をたよりに、両松が植えられていた場所を特定しました。

下が、その1828年の地図です。

この地図を見るまで、筆者は「御殿山史」(昭和11年出版)という本に記載されていたとおり、鐘鋳の松は、砲術稽古場の北に植えられていたと思っていました。また、籏懸の松に至っては、具体的な場所を示す文献などが見当たらなかったため、想像するしかありませんでした。しかし、地図によると、鐘鋳の松は砲術稽古場の南にあったこと。そして、籏懸の松はその西の、山と畠の境目(黒い点線)付近に存在していたことがわかりました。この場所を現在の地図に重ね合わせると下のようになります。

地図:復元・江戸情報地図(朝日新聞社、1994年)

GoogleEarth

ご覧のとおり、鐘鋳の松は品川女子学院の敷地内。籏懸の松は、御殿山トラストシティとJR各線の切り通しの境目あたりに植えられていた、と推測することができます。

さらに両松の場所を、幕末、御殿山が品川沖台場の土取場になってしまったころの地図(御殿山公使館地図(1862年頃))に重ね合わせると下のようになります。

この地図からすると、おそらく鐘鋳の松は御殿山が土取場になってしまった1853~54年頃に消失したものと思われます。また籏懸の松は、「新編武蔵風土記稿」(1830年)などによれば、それよりもさらに60年近く前の1790年頃には、すでに枯れていたことになっています。

前編では、以上のようなことをご紹介しました。

鐘鋳の松を描いた絵はあるか?

歌川広重「八景坂鎧懸松」

上の浮世絵に描かれているのは、JR大森駅近くの八景坂(はっけいざか)にあった「鎧懸松(よろいかけまつ)」という松です。唐突にご紹介しましたが、この松は、鐘鋳の松や籏懸の松とは一切関係ありません。(失礼しました。)

ただ、鐘鋳の松についても、これと同じような浮世絵が残っていないものか・・・というのが筆者の希望です。

御殿山を描いた浮世絵はたくさんあります。歌川広重も葛飾北斎も、みな御殿山を描いています。しかし、残念ながら、鐘鋳の松そのものを題材とした浮世絵を見つけることはできませんでした。

ただ、「見つけられなかった」という結論で終わってしまうのも悔しいので、以下の2つの絵をご紹介します。

東海道分間延絵図(1806年完成)

1つ目は「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんげんのべえず)」(1806年完成)です。これは、幕府が東海道の状況を把握するため、道中奉行に命じて作らせた絵地図です。上は、品川宿(歩行新宿と北品川宿)の部分を一部切り取ったものです。赤い点線の部分に、砲術稽古場が描かれています。下がその拡大図です。

砲術稽古場(=鉄砲稽古場)との位置関係からすると、赤丸の中の2つの松のうち、どちらかが鐘鋳の松なのではないか、と思われるのですが、いかがでしょうか。(鐘鋳の松は1本だと思っています。)

しかしこの推論は、我ながら強引すぎるような気がします。おそらくどちらの松も鐘鋳の松を意識して描いたものではなく、単に山林を表す記号として描いただけだと思います。

なお、「東海道分間延絵図」の実物は、縦60cm、横30mもあります。上の画像は、「東海道品川宿」(品川歴史館、2015年)という本に記載れていたものを拡大したものです。A3サイズの本ですので実物をかなり縮小して掲載しているため、地図の中の文字がつぶれてしまっています。

花下遊楽図(亜欧堂田善、文化年間(1804~18年))

2つ目は、以前、この連載でもご紹介したことがある、亜欧堂田善(おうあどうでんぜん)の「花下遊楽図(かかゆうらくず)」です。油絵ですが、江戸時代(1804~18年頃)の作品です。描かれているのはもちろん御殿山の桜です。構図からすると、南から北、おそらく、かつて品川御殿があった辺りから高輪方面を見て描いたものです。

白丸の松が、位置といい、大きさといい、ちょうど鐘鋳の松にぴったりと合致するような気がするのですが、いかがでしょうか。

なお、鐘鋳の松の大きさについては、「新編武蔵風土記稿」に「囲一丈」とあり、胴回りが3mあったと記されています。3mとなると結構な大木です。絵の中の松も、その記述とぴったり一致するような、比較的大きな松に見えます。

地図の中の赤い点線は、筆者が推測する当時の御殿山の縁(へり)です。赤い点線より右側(東側)が、崖に近い急な斜面になっていたと考えています。そして、矢印は筆者が想定する田善の絵の視点です。

また下の図は、国土地理院のサイトで計測した、籏懸の松(推測地)からから第一京浜に至るまで(地図中の青い点線)の御殿山の断面図です。

縦横比=3:1

田善の描いた松は、方向的には、鐘鋳の松とちょうど合致するような気がします。しかし、鐘鋳の松は御殿山の麓にあったと考えられますので、斜面の中腹に描かれている点で、可能性としては低くなってしまうかもしれません。

 

【補足】
亜欧堂田善の「花下遊楽図」を始めとする御殿山を描いた数多くの絵をみると、御殿山の東側の裾野は、緩やかなスロープではなく、急な斜面になっているように見て取れます。また、筆者は、御殿山の縁(へり)が北から南に向かってL字型になっていたと推測しています。その根拠は、歌川広重の「御殿山花見」(1840年頃)によります。(もちろん絵ですので、さまざまな誇張があることを踏まえた上での推測です。)

歌川広重「御殿山花見」

籏懸の松の絵はあるか

決定的な鐘鋳の松の絵が見当たらないのであれば、信玄籏懸の松はどうでしょうか。

信玄が休憩の際に旗を立て掛けたくらいですから、籏懸の松は、御殿山の丘の上にあったと考えられます。となると、鐘鋳の松とは違って、御殿山を描いた数多くの浮世絵の中に紛れて描かれている可能性があります。

さらに言うと、1824年に作成された「宿差出明細帳写」という文献には、当時の御殿山には松がたった5本しかなかったと記されています。ということは、1つの絵の中に描かれている松の本数が多ければ多いほど、その中に籏懸の松が紛れ混んでいる可能性が高くなります。

「東都名所御殿山花見品川全図」(歌川広重、1832年頃)

例えば、歌川広重の「東都名所御殿山花見品川全図」。この絵には、松が4~5本描かれています。特に①の松は、御殿山全体の位置関係からしても、籏懸の松としてちょうどいい場所にあるような気がします。

ただし、この作品が描かれたのは1832年頃です。「新編武蔵風土記稿」によれば、すでにその頃には、籏懸の松は枯れていたことになっています。(②の松は後述)

「絵本江戸土産再出御殿山当時のさま」(歌川広重、1857年頃)

実は、筆者には気になる絵があります。それは、1857年頃に歌川広重によって描かれた「絵本江戸土産再出御殿山当時のさま」という作品です(左)。(あるいは、これとほぼ同じ構図の作品「五十三次名所図絵御殿山より駅中をみる」(1855年頃)(右))

この作品は、御殿山が土取場として切り崩されてしまった後の様子を描いたものです。気になるのは、左側の崖の上に立っている③の松です。

下は、先述の「御殿山公使館地図」を使って、絵の視点と③の松の位置を推測したものです。右下の青い矢印が絵の視点です。(左が北、右が南、上が東となります。)

注目していただきたいのは、③の松の場所です。この場所、この記事の前半で同じ地図を使ってご紹介した籏懸の松の推測地と一致しないでしょうか。(先掲の御殿山の断面図のとおり、「塙次郎」の敷地は、麓の低い場所にあったと推測されます。つまり、塙次郎周辺の崖は、地図に描かれているほどには実際は高くなかったと考えています。)

もし、一致していると仮定すると、③の松が籏懸の松である可能性がでてきます。

しかし、籏懸の松はこの絵が描かれた当時、すでに枯れていたことになっています。1828年(文政11年)の地図にも「籏懸松」と印されています。

しかしそのことは「松がその場所に存在しない」ことを必ずしも意味しません。地図に「跡」と書かせるだけの“なにか”がそこに存在したはずです。そしてその“なにか”は、普通に考えれば、松の切り株や立て札や石碑だと思うのですが、もしかすると、枯れ果ててはいるが、かろうじて立っていた籏懸の松そのものかもしれません。あるいは、籏懸の松の代わりに植えられた後継の松だったかもしれません。

③の松は、実はそんな松が、絵の中に紛れ込んだものなのではないでしょうか。(もちろん、絵ですので、多少の創作や誇張が盛り込まれていることを前提とした上での推測です。)

なお余談ながら、鐘鋳の松、籏懸の松、どちらの松にも関係ないのですが、絵の中の右側の崖の上に立っている④の松は、下の歌川広重の別な作品「名所江戸百景品川御殿やま」(1856年頃)に描かれている松と同じ松ではないか、と推測しています。

さらにいうと、この作品の松は、先にご紹介した「東都名所御殿山花見品川全図」の中の②の松と同じではないか、とも推測しています。

品川宿絵図(天保年間以降)

最後に「東海道品川宿」(品川歴史館、2015年)という本に掲載されていた「品川宿絵図」をご紹介します。本の注釈によると、作成された具体的な時期は不明ながら、少なくとも1836年以降、天保年間(1831~45年)に作られた絵図だそうです。

実物は縦1m、横1.5mもある大きな絵図ですが、A3サイズに縮小されて本には掲載されています。その一部を切り取ったものが下の画像です。

縮小されすぎて字がつぶれてしまっていますが、ちょうど松の想定地、つまり1828年(文政11年)の地図と同じ場所に、赤丸と字が書かれています。

現物を見ない限り正確なことはわかりませんが、それぞれ鐘鋳の松、籏懸の松を示しているのではないでしょうか。現物は品川歴史館に寄託(宇田川家所蔵)されているそうなので、今度、機会をみて確かめてみたいと思っています。

ちなみに、品川歴史館にこの絵図を寄託された宇田川家は、代々、北品川宿で名主を務めてきた家柄です。宇田川家の先祖は、室町時代(1457年)、太田道灌が御殿山の館から江戸城に転居した際、道灌に代わって御殿山の館を引き継いだ宇田川長清です。また、歩行新宿(かちしんじゅく)の名主を務めた飯田家と、品川神社の神主を務めている小泉家は、ともに宇田川家から派生した家系です。

 

以上で、前後編にわたってご紹介した今回の記事は終了となります。

今回は、数年前に取り上げた話題を、再度、掘り下げてご紹介することになりましたが、いかがだったでしょうか。

松の寿命は500~1000年ともいわれています。鐘鋳の松が植えられた当時、あるいは、信玄が籏を立て掛けた当時、既に両松の樹齢が数百年経っていたとしても、まだまだ十分お釣りがくる年数です。そう考えると、もしかりに歴史の幸運が重なっていたならば、令和の今でも両松を見ることができたのかも知れません。

ただ、目の前にないものを想像して思い浮かべることもまた、歴史好きにとっては何よりも楽しいひとときではあります。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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